引き続き、山口多聞少将は次のように話している。
「また、南雲長官に、南雲部隊司令部は誰が握っているのかと質問したところ、長官(南雲)は一言もいいませんね。……南雲部隊司令部はいずれも卑怯者ぞろいだ…」。
南雲部隊の司令長官たるものが山口司令官の質問に対し、『それはもちろん僕である』とハッキリ答えられないということは、南雲部隊を握っていた者は、少なくとも南雲長官でないということを、無言のうちに立証しているようなものである。
南雲は源田の言い成りになっていた、という事実は、衆目の一致するところである。南雲は、源田の考えを、南雲長官の意見または命令として発表・発信する、ロボットの如き存在に過ぎなかった、と言うこともできる。
南雲部隊司令部を実際に握っていたのは源田であり、そして、ミッドウェー海航空戦は、諸資料、諸研究によって裏付けられるとおり、人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である。
以上が、柴田武雄の「源田実論」よりの要旨抜粋である。
一方、月刊誌「丸」(昭和三十三年・新春二月特大号)所収「源田空将縦横談」の中の「ミッドウェーの二つの敗因」で、源田実は次のように述べている。
「僕が二つの失敗をやった。一つは、あのとき四隻しか母艦がいないでしょう。真珠湾は六隻でやったが、第五航空戦隊というのが、珊瑚海の戦で一隻傷ついて、間に合わなかった」
「しかも、どうしてもあの時期にミッドウェーをやるというので、第五航空戦隊は残して行った。これが、もともと時期的に無理であって、こちらが十分整えたところで行くべきなんで、急ぐべきもんではなかった」。
これに対して、柴田武雄は次のように反論している。
「源田が言っていることを結論すれば、『時期的に無理であり、十分整えてから行くべきであった』ということになるが、こちらは正式空母四隻でも敵空母三隻よりは優勢であり、ミッドウェーの敵陸上機を加味して考えても、こちらにはなお空母鵬翔ほか北方部隊の空母二隻がおり、更に零戦および搭乗員の優秀性を考慮するときは、実質的総合的にはこちらが優勢であるので、航空戦の計画指導実施に誤りさえなかったならば、勝っていたはずである」。
ミッドウェー海戦後の、六月二十七日、瀬戸内の岩国沖の柱島泊地に碇泊中の戦艦大和に嶋田繁太郎海軍大臣がやって来た。
連合艦隊の宇垣纒参謀長は嶋田海相に挨拶を行い、ミッドウェー海戦について、「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないと思っています」と神妙なおももちで、嶋田海相に頭を下げた。
すると、嶋田海相は、「いやいや、なんでもない」と、愛想よく答えたと言われている。「ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか」と感じた軍人も多数いたそうである。
ミッドウェー海戦後、山本五十六大将の連合艦隊司令部も異動はなく、そのままの陣容だった。南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実甲航空参謀ら機動部隊首脳も、敗戦の責任は問われなかった。
南雲中将は第三艦隊司令長官、草鹿少将は参謀長に就任した。さすがに、参謀らは異動になり、源田中佐も、参謀をはずされ、第三艦隊の第一航空戦隊旗艦、空母「翔鶴」の飛行長に任命された。
昭和十七年十月八日、山本五十六司令長官の意向で、源田実中佐は、臨時第一一航空艦隊参謀として、ラバウルに赴任した。ガダルカナル島攻防戦の作戦指導を行ったが、マラリヤになり、入院した。
十一月中旬、源田中佐は、中央の航空作戦主務になるために、ラバウルから内地に帰された。軍令部第一課長・富岡定俊大佐から静養を勧められ、源田中佐は九州の別府温泉で十日間、身体の回復を図った。
その後、十二月十日、中央に呼び帰され、軍令部第一部作戦課航空部員(大本営海軍航空主務参謀)に就任、陸軍と共にガダルカナル島撤退作戦の研究を行った。
昭和十八年二月上旬、ガダルカナル奪還の成算を失った日本陸軍は、ガダルカナル島から撤退した。ガダルカナル島での戦没者は、陸軍が約二八〇〇〇人、海軍が約三八〇〇人である。そのうち約一五〇〇〇人が病死だが、飢餓からの病死がほとんどだった。
「また、南雲長官に、南雲部隊司令部は誰が握っているのかと質問したところ、長官(南雲)は一言もいいませんね。……南雲部隊司令部はいずれも卑怯者ぞろいだ…」。
南雲部隊の司令長官たるものが山口司令官の質問に対し、『それはもちろん僕である』とハッキリ答えられないということは、南雲部隊を握っていた者は、少なくとも南雲長官でないということを、無言のうちに立証しているようなものである。
南雲は源田の言い成りになっていた、という事実は、衆目の一致するところである。南雲は、源田の考えを、南雲長官の意見または命令として発表・発信する、ロボットの如き存在に過ぎなかった、と言うこともできる。
南雲部隊司令部を実際に握っていたのは源田であり、そして、ミッドウェー海航空戦は、諸資料、諸研究によって裏付けられるとおり、人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である。
以上が、柴田武雄の「源田実論」よりの要旨抜粋である。
一方、月刊誌「丸」(昭和三十三年・新春二月特大号)所収「源田空将縦横談」の中の「ミッドウェーの二つの敗因」で、源田実は次のように述べている。
「僕が二つの失敗をやった。一つは、あのとき四隻しか母艦がいないでしょう。真珠湾は六隻でやったが、第五航空戦隊というのが、珊瑚海の戦で一隻傷ついて、間に合わなかった」
「しかも、どうしてもあの時期にミッドウェーをやるというので、第五航空戦隊は残して行った。これが、もともと時期的に無理であって、こちらが十分整えたところで行くべきなんで、急ぐべきもんではなかった」。
これに対して、柴田武雄は次のように反論している。
「源田が言っていることを結論すれば、『時期的に無理であり、十分整えてから行くべきであった』ということになるが、こちらは正式空母四隻でも敵空母三隻よりは優勢であり、ミッドウェーの敵陸上機を加味して考えても、こちらにはなお空母鵬翔ほか北方部隊の空母二隻がおり、更に零戦および搭乗員の優秀性を考慮するときは、実質的総合的にはこちらが優勢であるので、航空戦の計画指導実施に誤りさえなかったならば、勝っていたはずである」。
ミッドウェー海戦後の、六月二十七日、瀬戸内の岩国沖の柱島泊地に碇泊中の戦艦大和に嶋田繁太郎海軍大臣がやって来た。
連合艦隊の宇垣纒参謀長は嶋田海相に挨拶を行い、ミッドウェー海戦について、「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないと思っています」と神妙なおももちで、嶋田海相に頭を下げた。
すると、嶋田海相は、「いやいや、なんでもない」と、愛想よく答えたと言われている。「ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか」と感じた軍人も多数いたそうである。
ミッドウェー海戦後、山本五十六大将の連合艦隊司令部も異動はなく、そのままの陣容だった。南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実甲航空参謀ら機動部隊首脳も、敗戦の責任は問われなかった。
南雲中将は第三艦隊司令長官、草鹿少将は参謀長に就任した。さすがに、参謀らは異動になり、源田中佐も、参謀をはずされ、第三艦隊の第一航空戦隊旗艦、空母「翔鶴」の飛行長に任命された。
昭和十七年十月八日、山本五十六司令長官の意向で、源田実中佐は、臨時第一一航空艦隊参謀として、ラバウルに赴任した。ガダルカナル島攻防戦の作戦指導を行ったが、マラリヤになり、入院した。
十一月中旬、源田中佐は、中央の航空作戦主務になるために、ラバウルから内地に帰された。軍令部第一課長・富岡定俊大佐から静養を勧められ、源田中佐は九州の別府温泉で十日間、身体の回復を図った。
その後、十二月十日、中央に呼び帰され、軍令部第一部作戦課航空部員(大本営海軍航空主務参謀)に就任、陸軍と共にガダルカナル島撤退作戦の研究を行った。
昭和十八年二月上旬、ガダルカナル奪還の成算を失った日本陸軍は、ガダルカナル島から撤退した。ガダルカナル島での戦没者は、陸軍が約二八〇〇〇人、海軍が約三八〇〇人である。そのうち約一五〇〇〇人が病死だが、飢餓からの病死がほとんどだった。