陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

575.源田実海軍大佐(35)、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった

2017年03月31日 | 源田実海軍大佐
 源田中佐が研究していたのは、約一年がかりで、一六〇〇機を擁する強い基地航空部隊(第一航空艦隊)を作り上げ、これによって戦局を一気にひっくり返そうというものだった。だが、敵の方がそれまで待ってくれなかった。

 しかもマリアナ進攻に先立つ、敵のビアク島攻略作戦にかきまわされて、基地航空部隊は兵力の消耗を余儀なくされ、肝心の敵がマリアナにやって来た時には満足な活動ができず、第一機動艦隊を孤立無援の形で優勢な敵機動部隊の攻撃にさらさせる結果となり、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった。

 源田中佐が計画立案した大作戦としては、失敗した「あ」号作戦の前に、「雄」作戦というのがあった。これは機動部隊および約一〇〇〇機の基地航空部隊を動員して、敵艦隊の補給や休養の基地となっていたメジュロ泊地に先制攻撃をかけ、敵機動部隊が出撃する前に撃滅しようという作戦だった。

 これも周到な作戦計画が立案され、昭和十九年三月初めに、源田中佐は作戦課長と共に飛行機でパラオに飛び、連合艦隊司令部と打ち合わせを行ったが、同司令部の同意が得られず、結論が出ないまま帰った。

 それから間もなく、昭和十九年三月三十一日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将以下多数の幕僚がパラオからミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)二機で移動中、低気圧に遭遇し墜落、古賀大将が殉職した大惨事(海軍乙事件)があり、「雄」作戦は立ち消えになってしまった。

 作戦を立案してその指導はするが、部隊を自ら指揮することのできない幕僚のもどかしさとむなしさを、こうした体験を通じて、源田中佐は、いやというほど味わった。それで後に、源田中佐は実戦部隊である三四三空司令に自ら希望して着任した。

 昭和十九年七月源田実中佐は陸海軍航空技術委員会委員に就任し、八月陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀も兼務した。十月、源田中佐は大佐に進級した。

 昭和二十年一月十五日、源田実大佐は四国の松山を基地とした第三四三海軍航空隊(紫電改戦闘機隊)の司令兼副長に就任した。

 「海軍航空隊始末記」(源田実・文春文庫)の中で、著者の源田実は第三四三海軍航空隊について、次のように述べている。

 「十九年の末期、私は帷幕(大本営や軍令部)の重責と、もう一つは戦闘機搭乗員出身の参謀という二重の責任の上から、精強な戦闘機隊をつくりあげ、その戦闘を突破口として敵の侵攻を阻止することを考えた。それが三四三空だ」。

 第三四三海軍航空隊の飛行長は、志賀淑雄(しが・よしお)少佐(東京・海兵六二・空母「赤城」分隊長・真珠湾攻撃に空母「赤城」第二制空隊長・空母「隼鷹」飛行隊長・空母「飛鷹」飛行隊長・海軍航空技術廠テストパイロット・少佐・第三四三海軍航空隊飛行長・戦後ノーベル工業入社・同社社長・同社会長・ゼロ戦搭乗員会代表)だった。

 戦後発行された「三四三空隊誌」の中で、当時の第三四三海軍航空隊飛行長だった志賀淑雄氏は、源田実大佐が三四三空司令として着任した様子を、次の様に記している。

 「源田司令は准士官以上の出迎えを受けて着任された。黙々と報告を受け、言葉少なく語られて余談なし。要の固い扇のごとく空気にわかに引き締まる。夕食後の一刻、士官室で隊長たちと語られる笑顔は慈父のようであった」。

 源田大佐は三四三空を「剣部隊」と命名した。剣部隊の初陣は昭和二十年三月十九日の松山上空の邀撃戦だった。

 この日、満を持した源田大佐の水際立った作戦指揮により、剣部隊は目覚ましい戦果を上げ、後に連合艦隊司令長官から次のような感状が授与された。

 「昭和二十年三月十九日、敵機動部隊艦上機の主力をもって(瀬戸)内海西部方面に来襲するや松山基地に邀撃、機略に富む戦闘指導と尖鋭果敢なる戦闘実施とにより忽ちにして敵機六十余機を撃墜し、全軍の士気を昂揚せるはその功績顕著なり。よってここに感状を授与す。 昭和二十年三月二十四日  連合艦隊司令長官 豊田副武」。

 この感状中で「機略に富む戦闘指導」とあるのは、明らかに源田大佐自身に与えられた賛辞である。

 三月十九日に大きな戦果が上がったのは、源田大佐が部隊の本拠である四国の松山基地を中心に作り上げた警戒情報網と、すぐれた地上指揮機構が大きな要因だった。

 これは有能な通信要員のほか、通信機材が揃っていたせいで、大本営参謀時代の人脈をフルに活かして航空隊レベルを超えた機材調達がものをいった。