陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

481.東郷平八郎元帥海軍大将(21)我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ

2015年06月12日 | 東郷平八郎元帥
 日露戦争中、明治三十八年五月二十七日、二十八日に行われた日本海海戦は、東郷平八郎大将率いる日本海軍の連合艦隊と、ロジェストヴェンスキー中将が率いるロシア海軍のバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の間で行われた対馬沖海戦である。

 「連合艦隊」(吉田俊雄・秋田書店)によると、日本海海戦の前、内地出港直前に連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍中将は次の二人と面会した。

 海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)海軍中将(鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・首相・予備役・退役・首相・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)海軍大将(鹿児島市清水馬場町・江戸幕府の洋学教育学校「開成所」卒・勝海舟の神戸海軍操練所卒・薩英戦争・戊辰戦争・明治維新後海軍大尉・通報艦「春日」艦長・少佐・スループ「日進」艦長・中佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・横須賀鎮守府次官・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・第一局長・海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・大将・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 山本海軍大臣と伊東軍令部長は、東郷司令長官に対して、「日露の新建造艦の状況は日本が遥に有利である」と力説し、「我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ。あとは心配無用だ」と言って激励した。

 その激励は、東郷司令長官を勇気づけはした。だが、東郷司令長官は、そんなことで、離れわざみたいな投機的な戦をする軍人ではなかった。東郷司令長官は黄海海戦で次のようなデータを概略ではあるが、つかんでいたのである。

 「ロシアは、味方が三発撃つうちに、一発しか撃てない。つまり、射撃速度は味方の三分の一である。命中率は味方の三分の一にも達しない」

 「敵弾は命中しても大火災を起こす能力はない。弾丸の威力は、強烈な下瀬火薬を一四パーセントも填めている日本に対し、ロシア硝化綿火薬を二・五パーセントしか填めていない。その威力を加味した実効戦力は、ロシアは日本の十分の一に過ぎない」。

 さらに東郷司令長官は、「敵味方の距離八〇〇〇メートルでは、回頭中に受ける被害はゼロに等しい」と略算して、日本海海戦では、トーゴ―ターン(敵前大回頭)を断行して勝利に導いた。

 「合理的で、非投機的で、しかも堅実」であるのが、東郷司令長官の身上だった。だからこそ、大バクチに見えるトーゴ―ターンが、実は成功率一〇〇パーセントの、最も合理的な戦法だったのである。

 東郷司令長官は、その一〇〇パーセント成功の秘策を胸に、「いつ、どこで、それを実行するか」と、その時機を、じっと待っていたのだった。

 「勝負と決断」(生出寿・光人社)によると、明治三十八年五月二十七日午後一時三十九分、日本の連合艦隊は、対馬東水道で、左舷南方約一一〇〇〇メートルに、もやの中から現れて来たバルチック艦隊の艦影を認めた。

 旗艦「三笠」の露天艦橋で、東郷司令長官は、右手にツァイスの双眼鏡、左手に長剣を握り、身じろぎもせず、一言も口をきかず、敵艦隊を注視し続けた。

 午後一時四十五分バルチック艦隊は全容を現した。先任参謀・秋山真之中佐が東郷司令長官に近づき、「先刻の信号ととのいました。直ちに掲揚いたしますか」と訊ねた。東郷司令長官は肯いた。

 午後一時五十九分、黄、青、赤、黒の四色のZ旗が「三笠」の艦橋のすぐ後ろのマストに、強風にあおられながらひるがえった。これが有名な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」というZ旗だった。

 戦闘が開始されたのだ。秋山中佐が東郷司令長官に「司令塔の中に入ってください」と言った。司令塔は厚い鋼板でおおわれ、砲弾の弾片などは跳ね返すのだ。だが、東郷司令長官は「ここにいる」と答えた。

 副官・永田泰次郎(ながた・やすじろう)中佐(東京・海兵一五・六十三番・三等駆逐艦「薄雲」艦長・少佐・常備艦隊副官・中佐・連合艦隊副官・戦艦「石見」副長・第五駆逐隊司令・第一駆逐隊司令・大佐・巡洋戦艦「鞍馬」艦長・舞鶴鎮守府参謀長・戦艦「摂津」艦長・少将・第二艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・臨時南洋群島防備隊司令官・中将・予備役・神戸高等商船学校校長・功三級)も東郷司令長官に「中に入られるよう」頼んだ。

 さらに、参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)少将(広島市中区・海兵七・次席・海大甲号一・砲艦「筑紫」艦長・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・首相兼海軍大臣・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)も頼んだ。

 だが、東郷司令長官は「私は年を取っているからいい。ここにいる若い君たちはみんな、中に入れ」と言って、動かなかった。東郷司令長官は五十八歳だった。ちなみに参謀長・加藤少将は四十四歳、副官・永田中佐は三十九歳、先任参謀・秋山中佐は三十七歳だった。

 ちなみに、イギリスのホレーショ・ネルソン提督(ノーフォーク出身・十二歳で海軍入隊・少尉昇進試験に合格・二十歳で艦長・最先任艦長・地中海でフランス艦と初戦闘・コルシカ島で陸上戦闘を指揮し負傷・右目を失明・地中海艦隊戦隊司令官・スペインの戦闘艦二隻を拿捕しバス勲爵士を授与される・少将・テネリフェ島攻略に失敗・右腕を負傷切断・ナポレオンのフランス艦隊を撃滅・男爵・青色艦隊中将・副司令官・子爵・地中海艦隊司令官・白色艦隊中将・トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊二十七隻を撃滅するが自身も戦死・英国国葬)は、一八〇五年十月二十一日、トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊と戦ったとき、四十七歳だった。

 だが、「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という信号を掲げ、フランス・スペインの連合艦隊を破り、自分は戦死した。
 
 そのネルソン提督の最後の言葉は、「神様ありがとうございました。私は自分の義務を果たしました」というものであった。