陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

437.乃木希典陸軍大将(17)乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣といったものを全て一変させた

2014年08月08日 | 乃木希典陸軍大将
 「川上さんは愛嬌がいい。我々に分け隔てをせぬ」と褒める者がると、一方には「乃木さんの無愛嬌はどうだ、いつも苦虫を潰したような顔をして傲慢らしく構えてばかりいる」と貶す者がある。船中の日本人の間では、両少将の毀誉褒貶(きよほうへん=ほめたり、悪口をいったりすること)で持ちきった。

 汽船はシンガポールに入港し、次の寄港地、錫蘭(セイロン)目指して出港した。この汽船には体格の大きなドイツ人が二人いた。二人は長く日本にいて日本語も巧かった。

 この二人のドイツ人は日本の青年士官や書生に向って「どうだ、日本相撲を取らぬか。いつでも相手になるぞ」と、毎日のようにからかいに来た。

 この体格の大きなドイツ人に勝てる見込みはないので、恥をかいてはいけないと、誰一人相手になろうとする者がいなかった。

 二人のドイツ人は、それをよいことにして「あなた方、相撲取るよろしい、私負けません」と、無理やり引っ張り出そうとするので、日本の青年連中は閉口していた。

 こんなことが五日間続いた。その六日目に、乃木少将が聞きかねて、伊地知通訳を呼んで「ドイツ人はうるさくていけない。私が取るから、そう言って来い。若い連中がいながら、何故相手にならんのか」と言って、ドイツ人のところへ通訳を行かせた。

 伊地知通訳からこの事を聞いたドイツ人二人は大得意で、「日本人相撲弱い。私勝ちます」と、真っ先に甲板に踊り出た。

 乃木少将はシャツ一枚になって現れた。乗客から船員までことごとく甲板上に集まって、この面白い晴れの勝負を見物した。

 乃木少将は中肉で少しやせていた。それに比べて、ドイツ人は山のような大男だったので、日本人は皆手に汗を握った。「乃木さんつまらん事を言い出して、恥をおかきなさるような事はあるまいか」と危ぶみ思った。

 ドイツ人は傲然として、「さあ来い」と言わぬばかりに立ち上がった。乃木少将もそれに応じて立ち上がった。しばらく揉みあううちに、乃木少将はドイツ人を否というほど投げつけた。日本人は言うに及ばず、外国人までがヤンヤと拍手した。

 もう一人のドイツ人もシャツ一枚で飛びかかった。乃木少将はこれも見事に投げつけた。山のような大男も鉄を圧することはできなかった。身体は小さくても乃木少将は鉄だった。満身皆膽(きも=気力)だった。

 それ以後、乃木少将は船中の花形になった。日本人と聞いて軽蔑していた外国人まで急に敬意を払うようになった。横柄だの無愛想だのと陰口を言っていた者まで国威を輝かすのは乃木少将に限ると言って、畏服した。

 「乃木希典」(松下芳男・吉川弘文館)によると、ドイツに到着した、乃木少将、川上少将の二人は、軍事の研究に没頭し、ドイツの兵制と兵学の吸収に努めた。

 在ドイツ一年半、乃木少将は明治二十一年六月十五日に帰国した。四十歳だった。帰国後、乃木少将は心機一転、生まれ変わったような厳格な人間、それは後に乃木将軍として世間に知られているような謹厳にして、一事も疎かにしないといった厳格な人間、精神家に大きく傾斜した。

 乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣、といったものを全て一変させた。倫理性が一変したのだ。乃木少将は別人になって帰国したといっていい。

 この心機一転の心境について、推察すると、乃木は今までひたすら死所を求めていたが、すでに死所を失った今日、陸軍のために尽くすことが、君国に報いる道であると考え直したからであろう。

 後に、乃木希典将軍殉死後、同じ長州軍閥の田中義一陸軍大将は、昭和三年四月九日付の東京朝日新聞に、このドイツ留学後の乃木将軍の変わり方について次のように述べている。

 「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬の揃いで、角帯を締め、ゾロリとした風で、あれでも軍人か、と言われたものだ。ところが独逸留学から帰ってきた将軍は、友人が心配したとは反対に恐ろしく蛮カラになって、着物も愛玩の煙草入れも、みな人にくれてしまって、内でも外でも軍服を押し通すという変わり方である。それがあまりひどいのでその理由をきくと、「感ずるところあり」と言うのみでどうしても言わなかった。いまも知人仲間の謎になっている」。