それが若い乱暴な士官には喜ばれるはずはなかった。「今度の旅団長はケチケチ言っていけない」「なんだか横柄な面構えをしている」「あんな長官を戴いていちゃ幅が利かない」「一度困らしてやろうじゃないか」などなど、相談している向きもあった。
そのような事を聞いた乃木将軍は大いに考えた。赴任後三か月たったある日、乃木少将は部下の大隊長、中隊長、小隊長等を招いて披露宴を開いた。
それを聞いた青年士官等は「どうせ乃木さんの御馳走だ、美味い物のありそうなはずはない。例の塩鰯かなんかで冷酒を飲ますのだろう。今日こそウンと困らせてやろう」と申し合わせて出かけた。
青年士官たちが乃木宅へ押しかけ、座敷に通されると、一間に長い大テーブルが一脚あって、その上に一升徳利が四、五本置いてあるだけだった。座布団さえもなかった。
御馳走は何も無くて、人数だけの盃が載せてあった。招かれた青年士官たちは「さてこそ」と言わぬばかりにテーブルを囲んで座った。
しばらくすると、乃木少将が軍服のまま出て来て、「今日は無礼講じゃ。大いに飲もう」と真面目に言って、テーブルの上にのし上った。その弾みに、佩剣がガチャリと鳴った。
「ああ、酌をしよう」と徳利を取り上げて、乃木少将はテーブルの上から酌をした。さすがの青年士官たちも呆気に取られて、引き受けては飲み、また引き受けては飲んだ。
乃木少将はテーブルの上を斡旋して、自分も満を引き(満杯の酒を飲み)、しまいには吟声や剣舞もやった。客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった。
しばらくすると、乃木少将はテーブルを降りた。「どうもこれでは面白くない。別間で飲み直そう。諸君こちらへおいでなさい」と前に立って襖を開けた。
すると、次の間には、山海の珍味も山の如く積まれていた。「どうも今までは失礼した。これからくつろいで十分にやってくれたまえ」と、座布団の上へ招いて、ニコニコ笑いながら酌をした。
招かれた青年士官たちは初めて乃木少将の意を知った。「今日こそウンと困らせてやろう」と相談した当てが外れ、「どうも狡いことをするよ」くらいで黙ってしまった。
これを手始めにして、乃木少将は今までのやり方をすっかり変えてしまった。夜更けに連隊長や大中隊長の宅を叩いて、「おい飲ませろ」と促して歩いたり、中には自宅へ如何わしい女などを引き入れる者もいたが、何時旅団長が来るかも知れないと、謹慎するようになった。
明治十九年十一月三十日、乃木少将は欧州派遣、ドイツ留学を命ぜられた。当時陸軍省は多くの外国人教師を雇っていたが、これら外国人には立派な邸宅を与えねばならず、高価な給料に加え相当な手当を要する場合が多かった。
それで、いっそ外国人教師を解雇し、その費用で有為の将校を外国へ留学させることになった。文部省も賛成した。
その最初の派遣生に、乃木少将と川上操六(かわかみ・そうろく)少将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・陸軍中尉・近衛歩兵第三大隊長・参謀・少佐・西南戦争に歩兵第二連隊長心得で出征・中佐・歩兵第一三連隊長・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第一連隊長・欧米視察・少将・参謀本部次長・近衛歩兵第二旅団長・ドイツ留学・参謀次長・中将・参謀本部次長・陸軍上席参謀兼兵站総監・日清戦争・征清総督府参謀長・参謀総長・大将・死去・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・子爵)が選ばれた。
欧州への汽船には乃木少将、川上少将、通訳の大尉、主計官ら軍人以外にも官僚や、民間会社の重役、学者、若い通訳や医学生など種種雑多の人々が乗船しており、船中は大賑わいだった。
川上少将は如才のない交際上手で、その上磊落な気性だったので、士官や書生が船に酔って船室の片隅でウンウンと唸っている側へ行って、「どうだ、苦しいか、苦しくても食事をしなければいけない。軟らかいものでも食って元気を付けろ」と親切にする。
ところが、乃木少将はちっとも情けらしい言葉はかけなかった。はた目には、傲慢そうに見える身体を船室に横たえて「これくらいの暴風雨が何だ。こんな波に負けて食事のできないような者が、いざ国家の大事となった時何の役に立つ。良い修業だ、苦しめ、苦しめ、船酔いで死ぬ者は決してない」と豪語する。どんなに苦しむ者がいても、慰問らしいことは言わなかった。
そのために、川上少将は船中の人望が大変よかったが、乃木少将はひどく評判が悪かった。「川上さんは親切だね」と言う者があると、次には「乃木さんは不親切極まる」と小言を言った。
そのような事を聞いた乃木将軍は大いに考えた。赴任後三か月たったある日、乃木少将は部下の大隊長、中隊長、小隊長等を招いて披露宴を開いた。
それを聞いた青年士官等は「どうせ乃木さんの御馳走だ、美味い物のありそうなはずはない。例の塩鰯かなんかで冷酒を飲ますのだろう。今日こそウンと困らせてやろう」と申し合わせて出かけた。
青年士官たちが乃木宅へ押しかけ、座敷に通されると、一間に長い大テーブルが一脚あって、その上に一升徳利が四、五本置いてあるだけだった。座布団さえもなかった。
御馳走は何も無くて、人数だけの盃が載せてあった。招かれた青年士官たちは「さてこそ」と言わぬばかりにテーブルを囲んで座った。
しばらくすると、乃木少将が軍服のまま出て来て、「今日は無礼講じゃ。大いに飲もう」と真面目に言って、テーブルの上にのし上った。その弾みに、佩剣がガチャリと鳴った。
「ああ、酌をしよう」と徳利を取り上げて、乃木少将はテーブルの上から酌をした。さすがの青年士官たちも呆気に取られて、引き受けては飲み、また引き受けては飲んだ。
乃木少将はテーブルの上を斡旋して、自分も満を引き(満杯の酒を飲み)、しまいには吟声や剣舞もやった。客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった。
しばらくすると、乃木少将はテーブルを降りた。「どうもこれでは面白くない。別間で飲み直そう。諸君こちらへおいでなさい」と前に立って襖を開けた。
すると、次の間には、山海の珍味も山の如く積まれていた。「どうも今までは失礼した。これからくつろいで十分にやってくれたまえ」と、座布団の上へ招いて、ニコニコ笑いながら酌をした。
招かれた青年士官たちは初めて乃木少将の意を知った。「今日こそウンと困らせてやろう」と相談した当てが外れ、「どうも狡いことをするよ」くらいで黙ってしまった。
これを手始めにして、乃木少将は今までのやり方をすっかり変えてしまった。夜更けに連隊長や大中隊長の宅を叩いて、「おい飲ませろ」と促して歩いたり、中には自宅へ如何わしい女などを引き入れる者もいたが、何時旅団長が来るかも知れないと、謹慎するようになった。
明治十九年十一月三十日、乃木少将は欧州派遣、ドイツ留学を命ぜられた。当時陸軍省は多くの外国人教師を雇っていたが、これら外国人には立派な邸宅を与えねばならず、高価な給料に加え相当な手当を要する場合が多かった。
それで、いっそ外国人教師を解雇し、その費用で有為の将校を外国へ留学させることになった。文部省も賛成した。
その最初の派遣生に、乃木少将と川上操六(かわかみ・そうろく)少将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・陸軍中尉・近衛歩兵第三大隊長・参謀・少佐・西南戦争に歩兵第二連隊長心得で出征・中佐・歩兵第一三連隊長・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第一連隊長・欧米視察・少将・参謀本部次長・近衛歩兵第二旅団長・ドイツ留学・参謀次長・中将・参謀本部次長・陸軍上席参謀兼兵站総監・日清戦争・征清総督府参謀長・参謀総長・大将・死去・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・子爵)が選ばれた。
欧州への汽船には乃木少将、川上少将、通訳の大尉、主計官ら軍人以外にも官僚や、民間会社の重役、学者、若い通訳や医学生など種種雑多の人々が乗船しており、船中は大賑わいだった。
川上少将は如才のない交際上手で、その上磊落な気性だったので、士官や書生が船に酔って船室の片隅でウンウンと唸っている側へ行って、「どうだ、苦しいか、苦しくても食事をしなければいけない。軟らかいものでも食って元気を付けろ」と親切にする。
ところが、乃木少将はちっとも情けらしい言葉はかけなかった。はた目には、傲慢そうに見える身体を船室に横たえて「これくらいの暴風雨が何だ。こんな波に負けて食事のできないような者が、いざ国家の大事となった時何の役に立つ。良い修業だ、苦しめ、苦しめ、船酔いで死ぬ者は決してない」と豪語する。どんなに苦しむ者がいても、慰問らしいことは言わなかった。
そのために、川上少将は船中の人望が大変よかったが、乃木少将はひどく評判が悪かった。「川上さんは親切だね」と言う者があると、次には「乃木さんは不親切極まる」と小言を言った。