陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

289.鈴木貫太郎海軍大将(9)大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった

2011年10月07日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治四十四年十二月一日、鈴木貫太郎大佐は、戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長に就任した。

 大正元年八月中旬第一艦隊は訓練を終え、戦艦敷島は伊勢湾に入港した。そのとき、鈴木艦長の許に、とよ夫人の重態の知らせが届いた。

 とよ夫人は、第一艦隊司令長官・出羽重遠大将の夫人の妹である。十八歳にして鈴木に嫁し、姑によく仕え、一男二女の母として家政を預かり、鈴木をして後顧の憂いのないようにした賢夫人だった。

 出羽司令長官も「とにかく一度帰って様子を見たほうが良い」と勧めるので、鈴木大佐は東京の自宅に戻った。

 とよ夫人は腎臓炎から尿毒症を起こしていた。あらゆる治療の手を尽くしたが、その甲斐なく様態は日毎に悪化した。

 十月の大演習には敷島艦長として活躍することを期していたが、海軍省でも事情を汲んで、横須賀の予備艦筑波艦長に鈴木大佐を転補した。

 その後九月十八日、とよ夫人は鈴木大佐以下家族の見守る中、他界した。享年三十三歳だった。葬儀万端を済まして傷心の鈴木大佐は予備艦筑波に乗った。

 大正二年十二月二十六日に開かれた第三十一議会は、年末年始の休会に入り、大正三年一月二十一日に再開された。

 山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)首相(海兵二・伯爵)の施政方針演説に対する野党の質問戦が開始され、議会は論戦が華やかに始まった。

 ところが、一月二十三日のロイター電報は、日本海軍の高官がドイツのシーメンス・エント・シュッケルト会社から、多額の贈賄を受けていると報じた。シーメンス事件の発端であった。

 時事新報は、この意外な重大ニュースを半信半疑のまま報道した。軍人は清廉潔白だという先入観のある国民は、兵器購入に当たって軍人が収賄するなど夢想だにしない時代だった。

 「まさか」と思っていたのであるが、山本内閣に恨みを含む立憲同志会ではよき獲物と直ちにこれに食いついた。山本内閣の与党的立場だった政友会でも驚いた。

 この事件は旋風のように海軍を包んだ。山本首相、斉藤実(さいとう・まこと)海相(海兵六・首相・子爵)のいずれもこの事実を知らなかった。そこで事実を究明すべく出羽重遠大将を委員長とする査問委員会を設置した。

 調べが進むにつれ、艦政本部第四部長・藤井光五郎機関少将(旧海軍機関学校四期・英国グラスゴー大学)、呉鎮守府司令長官・松本和(まつもと・かず)中将(海兵七・海大一)らが、収賄していたことが明るみに出てきた。

 これに関連して、三井物産の岩原謙三、飯田義一、山本条太郎も検挙された。

 当時、鈴木貫太郎少将は人事局長だったが、犯罪事実がほぼ確実なのを認め、斉藤海相に松本中将らの待命を進言した。

 斉藤海相はこれに同意し山本首相に相談した。だが、山本首相は、取調べの進展を見た上でも遅くはないだろうといい、発令はされなかった。

 鈴木人事局長は査問委員会から取り調べの内容について報告を受けており、世論の激昂しないうちに、先手を打って行政処分をしたほうが良いと考えた。

 だが、山本首相は多年海軍の大御所として多数の部下を扱ってきており、自らやましいところがないので、日ごろの切れ味に似ず遷延したのだ。

 ところが、取調べは急速に進展し、二月二十八日、呉鎮守府司令長官の官舎が家宅捜索を受け、松本中将は起訴収容されるに至った。こうなれば、もう行政処分では追いつかぬことになってしまった。

 松本中将は収容される直前、鈴木人事局長を局長室に訪ね、次の様な告白をして行った。

 「実は周囲の者から次の海軍大臣だとおだてられ、自分もついその気になった。海軍には機密費が少ない。これでは政界に出ても活動できないから、大臣になったときのため、予め機密費を用意しておくため贈賄を取った」

 「自分の懐を肥やすためにやったのではない。これだけは君に了解して貰いたい。全く申し訳のないことをした」。

 松本中将は山本権兵衛大将から特に目をかけられ、明治四十一年横須賀海軍工廠長から艦政本部長に起用され、大正二年十二月一日、鈴木貫太郎少将が人事局長になったとき、呉鎮守府司令長官に親補された。

 それにしても、大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった。鈴木少将は候補生時代、練習艦筑波で航海長・松本大尉の指導を受けた。

 その先輩が孤影悄然と局長室を出て行く後姿を見て、鈴木少将は感慨なきを得なかった。