陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

194.東條英機陸軍大将(14)中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが

2009年12月11日 | 東條英機陸軍大将
 十月二十四日夜、東條首相は秘書官・赤松貞雄大佐に命じて、首相官邸に、岩村法相、安藤紀三郎内相、松坂広政検事総長、町村金吾警保局長、薄田美朝警視総監、四方東京憲兵隊長らを集めた。

 会議で東條首相は、中野を起訴することを主張したが、法律上できないという結論になった。次に中野をこのまま留置して議会に出させないようにしたいと主張したが、それも難しいことが分かった。

 東條首相は「戦争に勝つためだ。なんとかしろ」と皆に言ったが、相手が国会議員だけに慎重になっていた。

 そのとき、四方東京憲兵隊長が「総理、私のほうで、何とかします」と言った。

 十月二十五日午前四時半、中野は、警視庁の独房十号から、憲兵隊に移された。それぞれの独房にいた三田村と天野は、ほの暗い裸電球の下を、中野が不自由な足で去っていくのを見送った。それが、二人がこの世で見た中野の最後の姿だった。

 中野が釈放されて、代々木の自宅に戻ったのは十月二十五日午後二時であった。憲兵隊は中野に「ある青年に、日本は負けると言った」と自白させていた。その上、「明日からの議会には出席しない」と中野に承知させた。

 中野が自白し議会欠席を承知したのは、今後の取調べで、皇族、重臣に迷惑を及ぼしてはならないと考えた。同時に自決の決意をしたのだった。

 十月二十六日深夜、自宅一階の書斎で、中野正剛は割腹自殺を遂げた。五十八歳だった。隣の部屋には憲兵二人が見張っていた。

 自殺の前に、常に居間に飾っておいた写真を取り外していた。それは、自分とヒトラーが並んで写っている写真だった。

 かつては日独伊三国同盟の推進者で「米英撃つべし」の主唱者、中野正剛も、死の前にはリベラルの政党人に戻っていた。

 自決の具体的な理由は不明だが、一説には徴兵されていた息子を前線に送るぞ、と憲兵に脅迫されていた。息子の安全と引き換えに自殺させられたという。

 「昭和の将帥」(高宮太平・図書出版社)によると、中野正剛が自殺してしばらくして、軍事評論家の高宮太平が東條首相に会ったとき、高宮と東條首相の間で次の様な会話が交わされた。

 高宮「中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが」

 東條首相「ふん」

 高宮「何かあったのですか」

 東條首相「君は福岡だったね。中野と何か関係があるのか」

 高宮「先輩として尊敬しています。ことに犬のことでは特別に懇意に願っていました」

 東條首相「犬のことなど聞いているんじゃない。君は中野の家来か」

 高宮「家来ではありません、家来ということならむしろ緒方さんの家来と言ったほうがよいでしょう」

 東條首相「それならやっぱり中野の家来じゃないか」

 高宮「そういうことにはならないのです」

 東條首相「どんなことになるにしてもだね」。

 東條首相はじっと高宮の顔をみて、

 東條首相「中野のことで俺に文句をつけようというのなら、面倒になるぞ。中野は国賊だ。国賊の片棒かつぐ気か。まあ、よそう。君との友情をここで打ち切りたくない。もうこの話はよせ、いつか話すこともあろう」

 昭和十九年三月二日、「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、東條首相は久しぶりの、秘書官たちとくつろいだ夕食を共にした。そのとき東條首相は戦争指導の困難さを次の様に語った。

 「世間では自分が何も知らずにいると思っているようだが、我慢ができないと思うときもある。何も知らずに、大切な仕事はできるものではない。本日の両統帥部情報交換でも、自分がすでに三度も聞いたようなことを、二時間近くもしゃべられて、実に閉口したよ。自分なら、十分も聞ければ充分だった。というよりは、これからはむしろ、こちらから不審の点を質問した方がよっぽどましだ」。