華族会館で食事が始まり、会は幕を開けた。だが、米内光政はいつまでたっても、フォークとナイフを使うきりで、予定通りの東條批判をやろうとしなかった。いさかいを好まない米内は「いま、やらんでも他日がある」と自ら、妥協したのだ。
ようやく若槻が「戦局が思わしくないと聞いているが、政府は景気の良い話ばかりだ」と皮肉を言った。東條首相は形式的な戦況報告をしてすましこんでいた。結局気まずい雰囲気で、みなが食事をしただけに終わってしまった。
中野、三田村たちは東方会本部に集まって、吉報いまかと、重臣会議の終わりを待っていた。だが午後二時になっても約束の近衛からの連絡は入らなかった。
「話がこじれているのかな。華族会館に電話をしてみい」と中野は秘書の進藤一馬に言った。電話すると「その会合は、とうに終わりました」という返事だった。
あせった中野は荻外荘に電話をかけた。「公爵はお戻りにならずに、そのまま軽井沢にまいりました」とのむなしい回答が返ってきた。中野は悄然と肩を落とした。
後日、三田村が近衛に電話をかけると、「米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ」と近衛は答えた。東條の暴力的弾圧を恐れて、米内に代わって東條批判をするだけの勇気が岡田にも近衛にもなかった。
三田村武夫が警視庁に逮捕されたのはそれから一週間後の九月六日だった。
松前重義は、その時は、逮捕はされなかったが、一年後の昭和十九年七月十九日次の様な電報を受け取った。「召集令状発せらる。七月二十二日、西部軍二十二部隊に入隊せられたし。熊本市長」。
松前は一瞬、これは何かの間違いだろうと考えた。だが、八方手を尽くしても召集解除にはならなかった。いろんな方面に探りを入れたが行き着くところすべて、東條の腹心、陸軍次官・富永恭二中将に突き当たった。
松前は当時、電子科学の第一人者で、少将待遇の逓信省工務局長であったにもかかわらず、東條に反対したという理由で、四十二歳で二等兵として前線に出ることになったのだ。
松前は入隊し、部隊と共に千トン足らずの爆薬を積んだ海軍の傭船でマニラに向った。マニラに到着すると、寺内南方軍総司令官がいた。
寺内大将は松前が二等兵でいることに驚き、早速命令を出した。「陸軍二等兵松前重義南方軍司令部付を命ず」というものであった。
さらに松前は軍政顧問にされた。さらに寺内大将は松前に「勅直任官を持って待遇し、平服着用を許可す」という命令まで出した。
だが、東條が退陣し、小磯内閣になっても松前の召集は解除されなかった。松前が最終的に召集を解除されたのは昭和二十年五月二十日であった。松前は日本に帰り、通信院総裁を命じられ、そのまま終戦を迎えた。
昭和十八年九月六日に三田村が逮捕された後、中野と天野は近衛とはかって、今度は重臣ではなく皇族に働きかけていた。
近衛が木戸内大臣の侍立なしで単独で天皇に東條退陣を上奏し、東條を宮中に呼び、監禁する。近衛師団に下命し、妨害を防ぎ、宇垣内閣を実現させるという構想だった。
だが東條首相が一歩早く手を打った。昭和十八年十月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野の東方同志会、天野の勤皇まことむすび、それに勤皇同志会の三団体の幹部約百数十名を検挙した。
中野の逮捕容疑は、倒閣工作を謀ったことと、ある青年に「日本は負ける」と話したことが名目上の理由だった。
中野正剛が収容されたところは、桜田門にある警視庁の留置場・独房十号だった。中野は以前、三田村や楢橋渡代議士に「ぼくは片足がない。投獄されれば、苦痛は常人に倍するだろう。面倒くさいから、腹を切って死ぬ」と言っていた。
中野を検挙したことに東條首相は大満足だった。だが、警視庁の取調官は、証拠となるべき自白も傍証も得られなかった。行政執行法では二日以上検束してはならないとなっていた。
だが、東條首相は自分の権力で内相を通じ、二十四日まで検束して取調べを行わせた。それでも、中野は自白もせず、傍証も得られなかった。
中野の逮捕を知った鳩山は大木操衆議院事務総長とはかり、「二十五日には臨時国会が召集される。ただちに中野を釈放しろ」と内務省に抗議した。徳富蘇峰も釈放運動に動き出した。
東條首相は焦ったが、とりあえず釈放するしかなかった。だが中野を議会に出席させたら何を仕出かすか分からなかった。
ようやく若槻が「戦局が思わしくないと聞いているが、政府は景気の良い話ばかりだ」と皮肉を言った。東條首相は形式的な戦況報告をしてすましこんでいた。結局気まずい雰囲気で、みなが食事をしただけに終わってしまった。
中野、三田村たちは東方会本部に集まって、吉報いまかと、重臣会議の終わりを待っていた。だが午後二時になっても約束の近衛からの連絡は入らなかった。
「話がこじれているのかな。華族会館に電話をしてみい」と中野は秘書の進藤一馬に言った。電話すると「その会合は、とうに終わりました」という返事だった。
あせった中野は荻外荘に電話をかけた。「公爵はお戻りにならずに、そのまま軽井沢にまいりました」とのむなしい回答が返ってきた。中野は悄然と肩を落とした。
後日、三田村が近衛に電話をかけると、「米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ」と近衛は答えた。東條の暴力的弾圧を恐れて、米内に代わって東條批判をするだけの勇気が岡田にも近衛にもなかった。
三田村武夫が警視庁に逮捕されたのはそれから一週間後の九月六日だった。
松前重義は、その時は、逮捕はされなかったが、一年後の昭和十九年七月十九日次の様な電報を受け取った。「召集令状発せらる。七月二十二日、西部軍二十二部隊に入隊せられたし。熊本市長」。
松前は一瞬、これは何かの間違いだろうと考えた。だが、八方手を尽くしても召集解除にはならなかった。いろんな方面に探りを入れたが行き着くところすべて、東條の腹心、陸軍次官・富永恭二中将に突き当たった。
松前は当時、電子科学の第一人者で、少将待遇の逓信省工務局長であったにもかかわらず、東條に反対したという理由で、四十二歳で二等兵として前線に出ることになったのだ。
松前は入隊し、部隊と共に千トン足らずの爆薬を積んだ海軍の傭船でマニラに向った。マニラに到着すると、寺内南方軍総司令官がいた。
寺内大将は松前が二等兵でいることに驚き、早速命令を出した。「陸軍二等兵松前重義南方軍司令部付を命ず」というものであった。
さらに松前は軍政顧問にされた。さらに寺内大将は松前に「勅直任官を持って待遇し、平服着用を許可す」という命令まで出した。
だが、東條が退陣し、小磯内閣になっても松前の召集は解除されなかった。松前が最終的に召集を解除されたのは昭和二十年五月二十日であった。松前は日本に帰り、通信院総裁を命じられ、そのまま終戦を迎えた。
昭和十八年九月六日に三田村が逮捕された後、中野と天野は近衛とはかって、今度は重臣ではなく皇族に働きかけていた。
近衛が木戸内大臣の侍立なしで単独で天皇に東條退陣を上奏し、東條を宮中に呼び、監禁する。近衛師団に下命し、妨害を防ぎ、宇垣内閣を実現させるという構想だった。
だが東條首相が一歩早く手を打った。昭和十八年十月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野の東方同志会、天野の勤皇まことむすび、それに勤皇同志会の三団体の幹部約百数十名を検挙した。
中野の逮捕容疑は、倒閣工作を謀ったことと、ある青年に「日本は負ける」と話したことが名目上の理由だった。
中野正剛が収容されたところは、桜田門にある警視庁の留置場・独房十号だった。中野は以前、三田村や楢橋渡代議士に「ぼくは片足がない。投獄されれば、苦痛は常人に倍するだろう。面倒くさいから、腹を切って死ぬ」と言っていた。
中野を検挙したことに東條首相は大満足だった。だが、警視庁の取調官は、証拠となるべき自白も傍証も得られなかった。行政執行法では二日以上検束してはならないとなっていた。
だが、東條首相は自分の権力で内相を通じ、二十四日まで検束して取調べを行わせた。それでも、中野は自白もせず、傍証も得られなかった。
中野の逮捕を知った鳩山は大木操衆議院事務総長とはかり、「二十五日には臨時国会が召集される。ただちに中野を釈放しろ」と内務省に抗議した。徳富蘇峰も釈放運動に動き出した。
東條首相は焦ったが、とりあえず釈放するしかなかった。だが中野を議会に出席させたら何を仕出かすか分からなかった。