陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

108.大西瀧治郎海軍中将(8) 「そんなことで戦ができるか」大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ

2008年04月18日 | 大西瀧治郎海軍中将
 暗い中で、試運転の爆音が続いていたが、伝令がきて「準備ようし」と言った。

 みんなが飛行機の方へ歩きかけようとしたとき、大西長官が門司大尉に「司令を呼んできなさい」と言った。

 門司大尉は、三、四十メートル離れている指揮所に走っていった。半地下の防空壕の中に佐多司令は座っていた。

 「長官がお呼びです」と門司大尉は言った。門司大尉が佐多司令を懐中電灯で案内して元の所へ戻ると、大西長官が暗い中にひとり立っていた。

 佐多司令と大西長官は向かい合った。異様な雰囲気であった。門司大尉は身をひいた。

 大西長官の低い声が聞こえた。「そんなことで戦(いくさ)ができるか」同時に、大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ。バシッという音がして、佐多司令が一歩よろめいた。

 門司大尉の心臓は、しばられるような痛みを感じた。死地に残る人を殴ったのである。大西長官の声は大声でなく、静かであったが怖いような迫力があった。

 「わかりました」と佐多司令は言った。大西長官は暗い中で佐多司令の顔を見ていたが、くるりと背を向けると滑走路のほうへ歩き始めた。

 二十分後、大西長官以下、門司大尉ら司令部員は真っ暗なクラーク飛行場を飛び立って、台湾に向かった。

 台湾に転出して、高雄近くの山の洞窟の司令部に入った。夜、仕事が終って、くつろいだ。

 そのとき、大西長官は門司大尉に「俺は、クラークの山の中に落下傘で降りたい」と語ったという。

 終戦になり、佐多司令の率いる部隊は生き残り、最後まで軍規正しく、佐多司令は多くの部下を統率し内地に昭和20年10月、帰還した。佐多司令は昭和45年2月7日、六十八歳で死去した。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、戦場が沖縄に移り、毎日のように鹿屋から特攻機が出撃していたころ、突入寸前の特攻機からの無電に変化が起きた。

 「祖国の悠久を信ず」「われ、敵艦に突入す」に混じって「日本海軍のバカヤロ」「お母さん、サヨナラ」という電文が送られてくるようになった。このような電文を非難したり、低い価値観でみることはできない。人間の真実だからだ。

 鈴木貫太郎内閣が成立したのは昭和20年4月7日で大西中将が小沢治三郎中将の後任として軍令部次長に親補されたのは4月19日だった。

 大西中将は神奈川県日吉の連合艦隊司令部に豊田副武長官を訪ねた。台湾にもどる副官の門司少佐は、そこで大西中将と別れを告げた。

 「今から台湾に戻ります」「そうか、元気でナ」

 門司少佐が車に乗ろうとすると、大西中将は「握手すると、みんな先に死ぬんでなあ」と言い、握手せずに、車が動き出すまで見送った。その後門司少佐は生還して終戦を迎えた。