陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

106.大西瀧治郎海軍中将(6) これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、続けてやる

2008年04月04日 | 大西瀧治郎海軍中将
 米内海軍大臣の前で、「サイパン陥落で、海軍が眠りから醒める時期がきましたな。これで、海軍省が空軍省になるきっかけができた」と大西中将は海軍再建について述べた。

 米内海軍大臣は最後まで黙って聞いていた。そして「わかった。おまえ次官をやれ」と言った。

 大西中将はすかさず言い返した。「いや、次官よりも次長(軍令部)にしてください」

 米内海軍大臣は「うん」とうなずいた。米内海軍大臣はこのとき大西中将を次長にしたかったのだが、海軍省内の大艦巨砲主義者が承知しなかった。

 昭和19年10月5日、大西中将はフィリピンに司令部を置く、南西方面艦隊司令部へ転出し、10月20日、第一航空艦隊司令長官に親補された。

 「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)によると、昭和19年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。

 10月25日、関行男大尉率いる特別攻撃隊、敷島隊五機がスルアン島北東三〇浬の敵機動部隊に突入、護衛空母セント・ロー沈没、空母カリニン・ベイ、空母キットカンベイ、空母ホワイト・ブレインの三隻に損害を与えた。

 10月27日、その日もフィリピンのルソン島マニラにある第一航空艦隊司令部は敵艦載機の空襲を受けた。「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)の著者、猪口力平氏(元海軍大佐)は当時海軍中佐で第一航空艦隊先任参謀であった。

 司令部が空襲を受けたので、10月17日に着任したばかりの第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎海軍中将と猪口中佐の二人は司令部前庭の防空援体に入った。

 しばらくすると大西長官は「先任参謀」と言った。「城英一郎大佐が、体当たりでなくては駄目だと思うから私を隊長として実行にあたらせてくれ、と再三言ってきたことがある。内地にいたときにはとうていやる気にはなれなかったが、ここに着任して、こうまでやられているのを見ると、自分にもやっとこれをやる決心がついたよ」

 大西長官は顔をまっすぐ前の壁に向けたままである。猪口中佐は黙っていた。外ではバラバラと銃撃の音が聞こえている。

 すると大西長官は続けて「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ」と言った。

 なおも猪口中佐が黙っていると、「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」そうポツンと言った。

 その後、海軍特別攻撃隊は敷島隊に続いて、大和隊、朝日隊、山桜隊が次々と突入した。

 この四隊のあと、引き続いて多数の特攻隊が編成されて出撃して行った。

 このような状況を憂慮した猪口中佐は大西長官に「レイテに敵も上陸して一段落したのですから、体当たり攻撃は止めるべきではないですか?」と言った。

 すると大西長官は「いいや、こんな機材の数や搭乗員の技量では戦闘をやっても、この若い人々はいたずらに敵の餌食となってしまうばかりだ」と言った。

 続けて「部下をして死所をえさしめるのは、主将として大事なことだ。だから自分は、これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、自分はこの際続けてやる」と言い切った。