陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

29.高木惣吉海軍少将(9) 重男、お前これから行って東條を刺してこい

2006年10月06日 | 高木惣吉海軍少将
「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年初頭、高木少将を盟主とし、東條内閣打倒運動に乗り出そうとした矢部貞治東大教授はがっかりした。

 高木少将の隠密行動が始ったのだ。高木少将は嶋田海軍大臣の辞任は伏見元帥宮による説得をわずらわす以外に方法がないと思った。

 伏見宮が軍令部総長が在任中、無類の忠勤を励んだ嶋田海相。その嶋田海相が耳を貸すとすれば伏見宮殿下しかない。そしてこの伏見宮殿下を説きえる人は岡田大将意外には見当たらない。

 高木少将のこの考え方は満点であった。だが、実際は高木の思惑通りに進まなかった。天皇を独占してしまった東條幕府のガードの高さと、岡田大将、伏見元帥宮の歯切れの悪い動きにあった。

 昭和十九年三月一日、高木少将は海軍省教育局長に就任する。その当日高木少将は湯河原に赴き近衛公、原田男爵と情報交換をした。

 近衛公は「今回の嶋田大臣更迭の失敗の根本はどこですか」と高木少将に問いをあびせた。高木少将は「伏見大宮さまですよ。なにしろそこまで工作する余裕がなかったから」と答えている。近衛公、原田男爵はやっぱり伏見さんかと長嘆息した。

 昭和十九年三月三十一日、古賀連合艦隊司令長官が飛行機事故で殉職、後任は豊田副武大将に決まった。

 「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、高木少将は四月八日に古賀連合艦隊司令長官の殉職を知った。

 高木少将は岡田大将の所へ駆けつけて悲報を伝えると、いつも物に動じない大将も「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん。一体どうすれば良いと思うか?」と凄い剣幕でたたみかけられた。

 そのあと、高木少将は海上ビルにあった浦賀船渠の社長室にまわり堀悌吉中将にも古賀長官の悲報を知らせた。

 「そらあもう駄目じゃないか!」というのが堀中将の最初の言葉で、眼鏡の奥にあふるるものを見て、高木少将の次の言葉が出なかった。

 三人兄弟のように親しかった山本、古賀の両将を一年足らずの間隔で戦死させた堀中将の胸は恐らく第三者の想像を越えたと思う、と高木少将は述べている。

 四月十五日、高木少将は横須賀鎮守府に豊田長官を訪れ、「お喜びを申し上げてよいかどうか迷っています」と露骨な挨拶をした。

 すると豊田長官は沈痛な表情で打ち明け話を高木少将にした。それは次のようなものであった。

 「嶋田大臣が、古賀が殉職したから GF(連合艦隊)に出てもらいたいと言うから、僕は固辞して南雲を名指しで推薦した。すると嶋田は、君がGFに最適任のことは伏見宮殿下もご同意のことだし、四時半には内奏の手続きがしてあるからと、否応を言わせないという態度で、四時十五分まで押し問答をしたが、結局みすみすハメ手にかけられたと思ったが、覚悟をして引き受けた」。

 そのあと豊田長官は「率直に告白すれば戦局挽回の成算も立たない、ヤハリ思い切った外交措置を打たないとイカンように考える」とも言ったという。

 「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年六月二十四日、高木少将は岡田大将と激しい応酬をした。

 高木少将は岡田大将ら重臣達の動きのにぶさに不満の表明という生ぬるいものではなかった。

 東條、嶋田のコンビがこれ以上政治に執着を続ける時は、海軍省の課長級が七月中旬を期してテロ行為を決行する雰囲気にあったので、高木少将は岡田大将に事態はそこまで進んでいると告げたのだ。

 岡田大将はそれはとんでもないことだと絶叫した。岡田大将は緊張に打ち震え、額に汗し、ややあって「真にやむをえず、何かやる時は、必ず、私に言ってからやってくれ」と高木に言った。

 高木の二十歳年下の従兄弟の川越重男の証言がある。高木少将と岡田大将の激しい応酬の前、昭和十九年五月のある夜、高木少将の自宅に来客があった。

 川越氏がお茶を持って応接室に入ったところ、主客ともかなり興奮していて、高木少将は、やにわにお茶をすすめる川越氏を見据え「重男、お前これから行って東條を刺してこい」と客前をはばからず怒鳴りつけたという。

 高木少将のそのような興奮は後にも先にもなかった。だが結局テロ計画は実施されなかった。