陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

30.高木惣吉海軍少将(10) やっておるというが、今まではできていないではないか

2006年10月13日 | 高木惣吉海軍少将
六月二十五日、伏見宮は岡田大将の度重なる要請についに腰を上げ、嶋田海相を解任し、米内大将を後任とすることを天皇に奏上した。

伏見宮は嶋田海相に辞任を勧告した。ところが嶋田海相は自分が辞任すれば、東條も辞め、内閣総辞職となるから、仰せには従えないと拒否した。こうして高木少将らの討幕運動は結実した。

六月二十七日、総理官邸で嶋田海相の辞職を主張する岡田海軍大将と東條首相のまさに一騎打ちが行われた。同時刻に高木少将は沢本海軍次官に呼びつけられ、岡田大将邸への出入り、海相更迭運動への警告を受けた。

「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、昭和十九年七月十日、南、荒木両大将が、東條総理に面接した。

東條総理は初めから喧嘩腰で「政治問題で来られたのか?」と詰問したという。南は鈴木系だが、荒木は皇道派で東條にとっては不愉快であったと想像される。

 「作戦に関して意見を述べに来た」と前置きして、大将会でのサイパン奪回の決議を述べ、陸・海軍の策応協同の必要を強調した。

 すると「そんなことは十分承知してやっている」と素気ない東條総理の言葉に「やっておるというが、今まではできていないではないか。サイパン戦まではできとらぬではないか」と押し返し強調した。

 だが東條は「毎日毎日同じ事を言ってくる者にいちいち応接の余裕はない。その位のことは百も承知でチャンとやっとる」と剣もほろろの挨拶だった。

 さらに、決議文を突き返され南、荒木両将軍は大いに憤慨して帰った。だが、昭和十九年七月十八日、東條内閣は総辞職した。

 「自伝的日本海軍始末記・続編」(光人社)によると、昭和二十年五月三十一日、高木少将は親任の連合艦隊司令長官、小沢治三郎海軍中将に会って戦争指導会議の経緯を語った。

 そのあと海軍省の焼け残りの裏の庁舎に海相を訪ねて、目黒の海大校舎に帰りかけると、まだ片付いていない海軍省旧館の焼け跡で、急に声をかけられ、目を上げると、山梨勝之進学習院長が立っておられた。

 「大変らしいが、どうだ元気かね、タカキ君!」

 山梨院長が次官時代に聞いた懐かしい声であった。

 「こうなりますと、健康の事なんかかまっておれなくなりました」と、多分にヤケクソ気味になっていた高木少将は、前置きの挨拶を忘れて答えた。

 山梨大将は少し頭を傾けながら、静かな声で

「いや君、中国の詩人は、じつにいいことを謳っている。野火焼いて尽きず、春風吹いてまた生ず。あせっちゃいかんね。手っ取り早くなんて考えない方がいいよ。春風吹いてまた生ず、良い句だね」(白楽天)と言った。

 高木は「逆上していた筆者の頭に氷嚢をあててくれた今は亡きこの大先輩の言葉をおもいだすと、われにもなく目頭が熱くなるのである」と記している。

 昭和二十年八月十五日正午、高木少将は軍令部で整列して玉音放送を聞いた。高木の直ぐ隣には、大西瀧治郎軍令部次長がいた。その大西次長の表情にはすでに、特攻隊員たちのあとを追う覚悟の程が現れていたという。

 高木少将は緒方竹虎の要請で東久邇宮内閣に入閣することになった。それに伴い、昭和二十年九月十五日、予備役となった。

  大正元年九月九日、海軍兵学校生徒に採用されて帝国海軍に身を投じてからまる三十三年、「桜と錨に別れる」こととなった。

  九月十九日、東久邇宮内閣の初代内閣副書記官長に入閣した。だが、十月五日内閣は総辞職した。この時点で高木少将は無官の太夫となった。高木は五十二歳であった。(終り)   

(高木惣吉海軍少将は今回で終りです。次回からは「遠藤三郎陸軍中将」が始ります)