この会は、池田少佐が幹事役をつとめ、毎週一回全員が集まって、討論審議を行った。この私的な研究会は、永田少将が軍務局長になると、公然と軍務局で取り上げるようになった。
だが、軍人の知恵だけでは具体策ができるはずは無かった。そこで官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、その結論の線を軍の威力で陸軍大臣が閣議に提出し、政府に実行させる方法を案出した。
この永田軍務局長らの要請に応えて参加した官僚は次の通り。
岸信介(きし・のぶすけ)商工省大臣官房文書課長(山口・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省工務局工政課長・外務書記官・大臣官房文書課長・公務局長・商工次官・商工大臣・衆議院議員・国務大臣・戦後戦犯で巣鴨拘置所入所・衆議院議員・日本民主党幹事長・自由民主党幹事長・外務大臣・首相・国連平和賞受賞・勲一等旭日桐花大綬章・大勲位菊花大綬章)。
唐沢俊樹(からさわ・としき)内務省警保局長(長野・東京帝国大学法科大学・首席・内務省・警保局図書課新聞検閲主任事務官・警保局保安課長・和歌山県知事・内務省土木局長・警保局長・法制局長官・貴族院議員・内務次官・戦後公職追放・衆議院議員・法務大臣・勲一等瑞宝章)。
和田博雄(わだ・ひろお)企画院調査官(埼玉・東京帝国大学法学部・農林省・企画院調査官・戦後農林省農政局長・農林大臣・経済安定本部総務長官・参議院議員・社会党入党・衆議院議員・左派社会党書記長・社会党国際局長・社会党副委員長)。
奥村喜和男(おくむら・きわお)逓信省事務官(福岡・東京帝国大学法学部・逓信省・内閣調査局調査官・企画院調査官・内閣情報局次長・戦後公職追放・東陽通商社長)。
迫水久常(さこみず・ひさつね)首相秘書官(東京・東京帝国大学法学部・大蔵省・甲府税務署長・外国為替管理法案策定・首相秘書官・大蔵省理財局金融課長・企画院第一課長・大蔵省総務局長・大蔵省銀行保険局長・内閣書記官長・貴族院銀・戦後公職追放・衆議院議員・参議院議員・経済企画庁長官・郵政大臣・鹿児島工業短期大学学長・勲一等旭日大綬章)。
小金義照(こがね・よしてる)商工省事務官(神奈川・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省鉱山局長・鉄鋼局長・燃料局長・戦後衆議院議員・自由党政務調査会副会長・国会対策委員長・自由民主党資金局長・郵政大臣・勲一等瑞宝章)。
相川勝六(あいかわ・かつろく)内務省警保局保安課長(佐賀・東京帝国大学法科大学・内務省・警視庁刑事部長・内務省警保局保安課長・宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事・厚生次官・厚生大臣・戦後公職追放・衆議院議員・自民党治安対策特別委員長)。
永田少将は、大正九年欧州駐在の後、「国家総動員に関する意見」を書いて高く評価されたが、日本における国家総動員研究の最初の軍人だった。
永田少将を中心とする国策の新建設は、当然、統制経済を念頭に置いた構想だった。永田少将らの「統制派」という名称は、例えば、池田少佐によると、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もある。
その経済統制を推進する面から、永田少将は、財界の一部と交際した。またグループの幕僚たちも工業倶楽部などに出入りさせて、財界に対する知識を広めさせようとした。
永田少将の政策に一役買ったものに矢次一夫(やつぎ・かずお・佐賀・父は医師・陸軍省から依頼され国策研究会設立・企画院委員・大政翼賛会参与・戦後公職追放・国策研究会を再建・岸信介首相の特使として日韓国交回復に尽力)の主宰する国策研究会があった。
「昭和人物秘録」(矢次一夫・新紀元社)によると、著者の矢次一夫は、当時の永田鉄山少将について、次のように述べている。
「陸海軍をあわせて私が知った将校は無数だが、インテリらしく、いかにも才物らしい鋭さを示した者は稀で、この点では、彼に師事した武藤(章)などまだ及ばずの感が深い」
「永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これはごく内密の話であり私見に止まるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもっていく必要を痛感したと語ったのである」
「私はこの話を聞きながら、軍人として話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ち着いて説く彼に、ありふれた軍人などの持たぬ卓見を聞いたのである」
「今でこそ(発行当時の昭和二十九年)こんな見解は何でも無いようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ」
「また永田は同じころ、私に、軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させるよう計らいたいと思う、それには交詢社とか、日本クラブとか、工業クラブなどに加入するのが良いかも知れない」
「軍務局とか整備局とか政治や経済を担当している中央部の将校を選抜して、それらのクラブに入会させるのはどんなものであろうか」
「現役軍人を会員として入会させるかどうか、陸軍でも研究するが、それらのクラブの当事者と相談してもらいたい、と頼まれたことがある」
「そこで、私はこれのクラブに行き、規約などを集めて、幹部にそれとなく聞き合せていたのであるが、この計画が実現しないうちに、彼は殺されてしまった」。
だが、軍人の知恵だけでは具体策ができるはずは無かった。そこで官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、その結論の線を軍の威力で陸軍大臣が閣議に提出し、政府に実行させる方法を案出した。
この永田軍務局長らの要請に応えて参加した官僚は次の通り。
岸信介(きし・のぶすけ)商工省大臣官房文書課長(山口・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省工務局工政課長・外務書記官・大臣官房文書課長・公務局長・商工次官・商工大臣・衆議院議員・国務大臣・戦後戦犯で巣鴨拘置所入所・衆議院議員・日本民主党幹事長・自由民主党幹事長・外務大臣・首相・国連平和賞受賞・勲一等旭日桐花大綬章・大勲位菊花大綬章)。
唐沢俊樹(からさわ・としき)内務省警保局長(長野・東京帝国大学法科大学・首席・内務省・警保局図書課新聞検閲主任事務官・警保局保安課長・和歌山県知事・内務省土木局長・警保局長・法制局長官・貴族院議員・内務次官・戦後公職追放・衆議院議員・法務大臣・勲一等瑞宝章)。
和田博雄(わだ・ひろお)企画院調査官(埼玉・東京帝国大学法学部・農林省・企画院調査官・戦後農林省農政局長・農林大臣・経済安定本部総務長官・参議院議員・社会党入党・衆議院議員・左派社会党書記長・社会党国際局長・社会党副委員長)。
奥村喜和男(おくむら・きわお)逓信省事務官(福岡・東京帝国大学法学部・逓信省・内閣調査局調査官・企画院調査官・内閣情報局次長・戦後公職追放・東陽通商社長)。
迫水久常(さこみず・ひさつね)首相秘書官(東京・東京帝国大学法学部・大蔵省・甲府税務署長・外国為替管理法案策定・首相秘書官・大蔵省理財局金融課長・企画院第一課長・大蔵省総務局長・大蔵省銀行保険局長・内閣書記官長・貴族院銀・戦後公職追放・衆議院議員・参議院議員・経済企画庁長官・郵政大臣・鹿児島工業短期大学学長・勲一等旭日大綬章)。
小金義照(こがね・よしてる)商工省事務官(神奈川・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省鉱山局長・鉄鋼局長・燃料局長・戦後衆議院議員・自由党政務調査会副会長・国会対策委員長・自由民主党資金局長・郵政大臣・勲一等瑞宝章)。
相川勝六(あいかわ・かつろく)内務省警保局保安課長(佐賀・東京帝国大学法科大学・内務省・警視庁刑事部長・内務省警保局保安課長・宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事・厚生次官・厚生大臣・戦後公職追放・衆議院議員・自民党治安対策特別委員長)。
永田少将は、大正九年欧州駐在の後、「国家総動員に関する意見」を書いて高く評価されたが、日本における国家総動員研究の最初の軍人だった。
永田少将を中心とする国策の新建設は、当然、統制経済を念頭に置いた構想だった。永田少将らの「統制派」という名称は、例えば、池田少佐によると、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もある。
その経済統制を推進する面から、永田少将は、財界の一部と交際した。またグループの幕僚たちも工業倶楽部などに出入りさせて、財界に対する知識を広めさせようとした。
永田少将の政策に一役買ったものに矢次一夫(やつぎ・かずお・佐賀・父は医師・陸軍省から依頼され国策研究会設立・企画院委員・大政翼賛会参与・戦後公職追放・国策研究会を再建・岸信介首相の特使として日韓国交回復に尽力)の主宰する国策研究会があった。
「昭和人物秘録」(矢次一夫・新紀元社)によると、著者の矢次一夫は、当時の永田鉄山少将について、次のように述べている。
「陸海軍をあわせて私が知った将校は無数だが、インテリらしく、いかにも才物らしい鋭さを示した者は稀で、この点では、彼に師事した武藤(章)などまだ及ばずの感が深い」
「永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これはごく内密の話であり私見に止まるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもっていく必要を痛感したと語ったのである」
「私はこの話を聞きながら、軍人として話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ち着いて説く彼に、ありふれた軍人などの持たぬ卓見を聞いたのである」
「今でこそ(発行当時の昭和二十九年)こんな見解は何でも無いようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ」
「また永田は同じころ、私に、軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させるよう計らいたいと思う、それには交詢社とか、日本クラブとか、工業クラブなどに加入するのが良いかも知れない」
「軍務局とか整備局とか政治や経済を担当している中央部の将校を選抜して、それらのクラブに入会させるのはどんなものであろうか」
「現役軍人を会員として入会させるかどうか、陸軍でも研究するが、それらのクラブの当事者と相談してもらいたい、と頼まれたことがある」
「そこで、私はこれのクラブに行き、規約などを集めて、幹部にそれとなく聞き合せていたのであるが、この計画が実現しないうちに、彼は殺されてしまった」。