陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

107.大西瀧治郎海軍中将(7) 二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか

2008年04月11日 | 大西瀧治郎海軍中将
 かって大西長官が最初の特別攻撃隊を編成したときは「これは外道だ」と言い、今は「これを大愛である」という確信に立っている。

 この二つの矛盾した考えを同時に同所で成立させたものは、はたして何であったろうか。

 命じたものも、命じられたものも、単に破壊のみを見ていたのではない。そこに戦争をしなければならない歴史の必然を認め、その戦闘に従事しなければならない因縁のまにまに、それに徹して「より大いなるもの」を求めていたのであろう、と猪口氏は述べている。

 「丸別冊エキストラ戦史と旅28」(潮書房)に、当時、第一航空艦隊副官・門司親徳海軍主計少佐(東大経済学部出身)が「大西長官、転進せり」と題して寄稿している。

 これによると、連合艦隊司令部から「一航艦の守備範囲を台湾まで広げ、司令部は台湾に転出せよ」との命令電報がフィリピンの第一航空艦隊司令部に届いた。

 昭和20年1月3日、アメリカ軍の大船団がミンダナオ海を西進していることが確認された。敵はフィリピンのリンガエンに上陸をしようとしていた。

 昭和20年1月9日の夜中、第一航空艦隊司令部は大西長官以下幕僚など司令部部員がクラーク中飛行場から迎えの飛行機で台湾に転出することになった。

 門司大尉は大西長官のカバンを持って一緒に車に乗り同行した。夜中にクラーク飛行場に着くと、迎えの飛行機が着いているらしく、盛んに闇の中で試運転の爆音を繰り返していた。

 転出する大西長官以下司令部幕僚は立ったまま、試運転が終るのを待っていた。

 このクラーク飛行場には、フィリピンに残留して、上陸してくる米軍と戦う十六戦区司令の佐多直大海軍大佐がいた。

 佐多司令は指揮官として、残留し、ルソン島西部の山に陣地を築き、立てこもることになっていた。

 大西中将と佐多大佐は海軍兵学校を出て、ともに若くして航空界に身を投じ、航空戦力の発展に尽くしてきた二人だった。二人は太平洋戦争でも命がけで戦ってきた。

 クラーク中飛行場で飛行機の出発を待っている大西長官ら幕僚のところへ、暗い中をススキを分けて、佐多司令が現れた。

 長身の佐多司令は、大西長官と参謀長のところへ近づくと、何か簡単な言葉を取り交わした。

 一航艦の司令部が台湾に転出する経緯を佐多司令は知らなかったのだろう。二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか、この地に一万数千人の地上員を残したまま艦隊長官は出て行ってしまうのか。

 鹿児島県の武家の家訓で育った佐多司令は、口には出さなかったが、そう言いたかったのかもしれない。

 佐多司令はあっけないほど、さっさとその場を去って、自分の防空壕の方へ帰っていった。司令の不満と抵抗的な気持ちが感じられた。

 門司大尉は佐多司令の歩いていく姿を見送りながら、うしろめたい気持ちをひしひしと感じた。

 佐多司令に限らず、このクラークに残る人たちは、みんなそう思うのではないだろうか。