陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

277.今村均陸軍大将(17)私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております

2011年07月15日 | 今村均陸軍大将
 昭和十三年十一月末、今村均中将は第五師団(広島編成・当時南支那駐屯)の師団長に親補された。

 昭和十四年九月初め、「第五師団は関東軍司令官の指揮に入るべし」との命令が発せられた。第五師団の満州派遣は、北満と外蒙古との境界付近に生じた日ソ両軍の衝突(五月四日)によるものであった。ノモンハン事件である。

 関東軍司令部は七万五千の兵力を集めて戦闘体制を整えた。今村中将の師団が満州へ派遣されたのもそのためである。

 大連から新京に飛んだ今村中将は、関東軍司令部の梅津美治郎軍司令官の許へ行った。梅津司令官は二日前に植田謙吉大将の後任として関東軍司令官に着任したばかりだった。

 梅津軍司令官は「第五師団はご苦労です」と今村中将に言った。そして静かな口調で次の様に語った。

 「関東軍参謀たちはまだ満州事変当時の気風を残していたものか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい、関東軍外の君の師団までわずらわす結果となってしまった」

 「今、モスクワで重光中ソ大使が停戦の折衝中で、これが成功すればよいが、万一ソ連がこれに応じない場合は断固応戦の決意を示すことが、ソ連を自重させ、停戦協定を結ぶ結果となろう。第五師団は敵に大打撃を与えるよう、速やかに戦闘体制を整えられたい」。

 今村中将は「私の師団の戦闘加入により、敵に停戦決意を起こさせるよう奮闘いたします」ときっぱり言い切った後、次の様に言葉を続けた。

 「先遣したわが師団参謀の言によりますと、『関東軍参謀が第一線または師団の責任指揮官をさしおき、部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害を出している』と、前線の責任者は憤慨しているとのことであります」

 「もし私の師団に対してもそのようなことをやりましたなら、私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております。この点、あらかじめご了承願います」。

 今村中将のこの申し出を、梅津軍司令官はこころよく受け入れた。この参謀は辻政信少佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・後の大佐・戦後衆議院議員)といわれている。

 今村中将はチチハルに飛んだ。ここで彼は次々に到着する戦闘部隊に指示を出し、戦闘準備を整えた。その後、九月十六日に梅津軍司令官から電報が届いた。「日ソ停戦協定成立」。

 中央に帰り教育総監部本部長を務めた後、昭和十六年六月二十八日、今村中将は第二十三軍司令官に親補された。五十五歳だった。

 昭和十六年十月十六日、第三次近衛内閣が総辞職し、十八日、東條英機内閣が成立し、首相は内相、陸相を兼任した。

 それから三週間後の十一月六日、広東にいた今村中将のもとに「貴官は今般、第十六軍司令官に親補せらる」という陸軍大臣電が届いた。

 昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。今村中将の第十六軍は蘭印(オランダ領インド・現在のインドネシア)のジャワ攻略作戦に当てられた。

 蘭印は十七世紀から約三百年に渡り、オランダが植民地として支配してきた。日本の大本営は、その蘭印の豊富な石油資源の獲得を目的にジャワ攻略戦(蘭印作戦)を起案した。

 昭和十七年二月二十八日、今村中将の指揮する第十六軍の輸送船団はスマトラ島の東に位置するジャワ島に到着した。翌三月一日、ジャワ島西部のバンタン湾から上陸を開始した。

 だが、上陸作戦中、今村中将の乗船していた輸送船「龍城丸」は敵の魚雷艇に攻撃され、撃沈された。今村中将は海に放り出され、泳いでいたが、材木につかまり、やがて発動艇に救助され、無事上陸した。

 今村中将より早く上陸した第二師団の諸部隊は東方十六、七キロのセラン市に向かって進撃を開始した。その後、三月六日にはジャワ島西部の首都バタビア(後のジャカルタ)を占領した。

 三月七日朝、今村中将はバンドン要塞攻撃の指揮をとるためセラン市を出発、午後四時頃、バタビア南部に着き、無人のオランダ軍兵営に入った。

 だが翌八日午前零時半、攻撃中の前線の支隊長・東海林俊成大佐(陸士二四・後の少将)から「敵の軍使が現れ『オランダ軍最高司令官・ボールテン中将は日本軍最高指揮官に対し、停戦申し入れの意志を持っていることを伝達されたい』と申し出があった」と電報が今村中将に届いた。