やがて、今村少将は梅津次官に対して次の様に言った。
「お教えはよくわかりました。陸軍の統制を破らないよう、最善の努力をいたします。ただ、現に配置してあります特務機関は、赤化と蒋介石の策謀を探知する任務に限り、また徳王支持も精神的な面は、お認め願いたいと存じます。もちろんこれらについても、ソ連と事を構えることにならぬよう十分注意いたし、中央、特に国家に累を及ぼすことはいたしません」。
こうして、関東軍の幕僚たちに『梅津次官にかわいがられている今村がいけば』と大いに期待され、押し出されてきた今村少将は、何の収穫もなく帰途に着いた。
昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。支那事変の勃発である。
関東軍参謀副長・今村均少将は、関東軍司令官・植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)から、「支那事変に対する関東軍の対策意見書を参謀本部に提出、説明せよ」と命ぜられ、東京へ飛んだ。その意見書の内容は次の様なものであった。
「天津北京付近に生じた日支両軍の衝突は、速やかに処断しなければ、事変は支那全土に拡がるであろう。なんとしても、中支南支に波及せしめてはならない。ついては、事変を北支五省の範囲内でくいとめるための兵力派遣が準備されなければならない」。
参謀本部に出頭した今村少将は、予想外の空気に驚いた。石原莞爾作戦部長(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)は「日本は満州だけを固めるべきだ」と主張し、戦争拡大の危険を説くが、河辺虎四郎大佐(陸士二四・陸大三三恩賜・後の中将・参謀次長)以下数人がそれを指示するだけだった。
他の幕僚は、石原作戦部長の主張にそっぽを向いていた。かつての拡大実行者、石原作戦部長の強調する不拡大主義は、宙に浮いていた。
河辺大佐は満州事変勃発当時、今村少将の下で作戦班長を務め、四面楚歌の今村を強く支持した部下であった。その河辺大佐が今村少将に単独会見を申し入れ、次の様に言った。
「率直に申します。私は周囲がどれほど不拡大方針に反対しても、驚きません。が、満州事変当時『軍は軍紀によって成る』と説き、出先軍を中央の意思に従わせようと苦心したあなたが、いかに関東軍司令官の意図によるものとはいえ、現在の石原部長の不拡大方針に反する意見書を持参し、部長を苦しめるとは…、大いに遺憾であります」
「しかも、富永恭次大佐(陸士二五・陸大三五・後の中将)や田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・後の少将)のような向こう見ずな連中を連れてきて、中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です」。
今村少将は素直に、かつての部下の苦言に頭を垂れた。そして次の様に言った。
「河辺君! 君の言う通りだ。私は軍司令官の命令で新京から来た以上、意見書は提出しなければならない。だが、私の口からは何も言わず、ただ提出だけにする」
「ただ一言、君にいいたいのは、富永、田中の二人は私が指定して連れてきたのではなく、東條(英機)参謀長(陸士一七・陸大二七・陸軍大臣・首相)の指令で東京に来ているのだ。私はこの二人に、中央の参謀をけしかけろなどと示唆したことはない。……新京に帰ったら、中央の指令に従いその統制に服するように、軍司令官を補佐する」。
今村少将は、石原作戦部長に会ったが、「関東軍の意見書は、庶務課長に渡しておきました」と述べただけで、一言の説明もせず、「事変の勃発でご苦心のことでしょう。どうか健康に留意してくれ給え」と、いたわりの言葉をかけて別れた。そして、富永、田中の二人を促し、早々に新京に帰った。
支那事変に対する関東軍の意見書を提出して東京から新京に帰った今村少将は、その数日後に「陸軍歩兵学校幹事に補職」の通知を受けて、帰国した。昭和十二年八月のことである。
昭和十三年一月、今村少将は阿南惟幾少将(陸士一八・陸大三〇・後の大将・陸軍大臣)の後任として、陸軍省兵務局長に就任し、三月に陸軍中将に昇進した。
同じ十三年六月には板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・後の大将)が陸軍大臣になった。だが、今村中将は板垣中将を陸相に推す一派の運動を知ったときから、その不成功を願っていた。
板垣中将が大度量につけこまれ、晩節を汚すことになりはしないかと怖れたのだ。
新大臣の板垣中将は少佐時代の一年間を参謀本部に勤務しただけで、中央の勝手がよくわからず、何かにつけて兵務局長の今村中将を呼び、「これはどうすればよいのか」と、昔のままの率直さで訊ねた。
「お教えはよくわかりました。陸軍の統制を破らないよう、最善の努力をいたします。ただ、現に配置してあります特務機関は、赤化と蒋介石の策謀を探知する任務に限り、また徳王支持も精神的な面は、お認め願いたいと存じます。もちろんこれらについても、ソ連と事を構えることにならぬよう十分注意いたし、中央、特に国家に累を及ぼすことはいたしません」。
こうして、関東軍の幕僚たちに『梅津次官にかわいがられている今村がいけば』と大いに期待され、押し出されてきた今村少将は、何の収穫もなく帰途に着いた。
昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。支那事変の勃発である。
関東軍参謀副長・今村均少将は、関東軍司令官・植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)から、「支那事変に対する関東軍の対策意見書を参謀本部に提出、説明せよ」と命ぜられ、東京へ飛んだ。その意見書の内容は次の様なものであった。
「天津北京付近に生じた日支両軍の衝突は、速やかに処断しなければ、事変は支那全土に拡がるであろう。なんとしても、中支南支に波及せしめてはならない。ついては、事変を北支五省の範囲内でくいとめるための兵力派遣が準備されなければならない」。
参謀本部に出頭した今村少将は、予想外の空気に驚いた。石原莞爾作戦部長(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)は「日本は満州だけを固めるべきだ」と主張し、戦争拡大の危険を説くが、河辺虎四郎大佐(陸士二四・陸大三三恩賜・後の中将・参謀次長)以下数人がそれを指示するだけだった。
他の幕僚は、石原作戦部長の主張にそっぽを向いていた。かつての拡大実行者、石原作戦部長の強調する不拡大主義は、宙に浮いていた。
河辺大佐は満州事変勃発当時、今村少将の下で作戦班長を務め、四面楚歌の今村を強く支持した部下であった。その河辺大佐が今村少将に単独会見を申し入れ、次の様に言った。
「率直に申します。私は周囲がどれほど不拡大方針に反対しても、驚きません。が、満州事変当時『軍は軍紀によって成る』と説き、出先軍を中央の意思に従わせようと苦心したあなたが、いかに関東軍司令官の意図によるものとはいえ、現在の石原部長の不拡大方針に反する意見書を持参し、部長を苦しめるとは…、大いに遺憾であります」
「しかも、富永恭次大佐(陸士二五・陸大三五・後の中将)や田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・後の少将)のような向こう見ずな連中を連れてきて、中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です」。
今村少将は素直に、かつての部下の苦言に頭を垂れた。そして次の様に言った。
「河辺君! 君の言う通りだ。私は軍司令官の命令で新京から来た以上、意見書は提出しなければならない。だが、私の口からは何も言わず、ただ提出だけにする」
「ただ一言、君にいいたいのは、富永、田中の二人は私が指定して連れてきたのではなく、東條(英機)参謀長(陸士一七・陸大二七・陸軍大臣・首相)の指令で東京に来ているのだ。私はこの二人に、中央の参謀をけしかけろなどと示唆したことはない。……新京に帰ったら、中央の指令に従いその統制に服するように、軍司令官を補佐する」。
今村少将は、石原作戦部長に会ったが、「関東軍の意見書は、庶務課長に渡しておきました」と述べただけで、一言の説明もせず、「事変の勃発でご苦心のことでしょう。どうか健康に留意してくれ給え」と、いたわりの言葉をかけて別れた。そして、富永、田中の二人を促し、早々に新京に帰った。
支那事変に対する関東軍の意見書を提出して東京から新京に帰った今村少将は、その数日後に「陸軍歩兵学校幹事に補職」の通知を受けて、帰国した。昭和十二年八月のことである。
昭和十三年一月、今村少将は阿南惟幾少将(陸士一八・陸大三〇・後の大将・陸軍大臣)の後任として、陸軍省兵務局長に就任し、三月に陸軍中将に昇進した。
同じ十三年六月には板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・後の大将)が陸軍大臣になった。だが、今村中将は板垣中将を陸相に推す一派の運動を知ったときから、その不成功を願っていた。
板垣中将が大度量につけこまれ、晩節を汚すことになりはしないかと怖れたのだ。
新大臣の板垣中将は少佐時代の一年間を参謀本部に勤務しただけで、中央の勝手がよくわからず、何かにつけて兵務局長の今村中将を呼び、「これはどうすればよいのか」と、昔のままの率直さで訊ねた。