井上成美中将がローマの、遠藤がパリの駐在武官だった昭和3年、遠藤は井上のことを次のように日記に書いている。
「ローマ大使館参事官が『強制される事を嫌うのは人間の自然性なるが故に徴兵制をやめて志願制にしては』といっておった。井上海軍中佐は『金〈給料〉次第で出来ぬ事もなかろう』と返事した。予は大不賛成だ。崇高なる国民の義務を果たすのは、ひとつの名誉である。軍隊を職業化することは精神的な堕落である」
遠藤日記にも時代よりも一歩先を進むリベラリスト、井上の片鱗がのぞく。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、戦雲急を告げ、杉山元帥から「飼い殺しだ」と言われた航空士官学校校長の職も五ヶ月で別れを告げ、昭和18年5月、遠藤中将は陸軍航空本部と陸軍航空総監部の両方の総務部長を兼務し、さらに大本営幕僚も兼務する事になった。
遠藤中将が北海道、千島、樺太方面の視察に出発の挨拶に東條首相のところに出向くと、東條首相は「今君に死なれては困る。目下同方面の気象状況不良故、旅行を中止してはどうか」と注意された。遠藤は「昭和7年初頭上海事件以来遠藤を嫌っていた筈の東條大将の言としてはいがいなことでありました」と記している。
遠藤中将は東條大将の注意を無視して長島少佐を伴い、予定通り旅行を実施したが、8月8日帯広から占守島に向かう途中千島特有のガスに遭遇し八時間雲の中をさまよい危なく海の藻屑となるところであった。
機長が戦隊随一の優秀者平岩大尉であったので適切な操縦で帰還する事ができた。
昭和18年、東條首相は、従来の企画院と商工省を合体し、それに陸海軍航空の生産部門を統合した航空兵器総局を加え、これを軍需省として11月1日正式に発足させた。
軍需大臣は東條首相が兼務し、次官には岸信介、総動員局長に椎名悦三郎、航空兵器総局長官に遠藤三郎中将を発令した。
航空兵器総局長官・遠藤中将の配下で、遠藤長官が最も信頼を寄せていたのは総務局長の大西瀧治郎海軍中将であった。
昭和19年6月、大西中将は、海軍大臣嶋田繁太郎大将に意見具申書を提出した。要旨は人事の刷新により戦勢を挽回しようとするものであった。
嶋田大将は兼任の軍令部総長の職を末次大将に譲って、海軍次官には多田中将、軍令部次長には大西中将自身が就任するというものであった。
遠藤中将はこの血涙を以って綴られた意見書に感激を覚えた。特にこの難局に際し自ら求めて最も困難な職に就こうとするその勇気に打たれた。
だが遠藤が理解に苦しんだのは、その意見書に「遠藤中将を陸軍参謀次長にせよ」との条件がついていることだった。遠藤は自分にはその勇気も自信もなく、第一陸軍当局が承知するはずがなかった。
この意見書を見た当局は相当大きなショックを受けたらしく、遠藤と大西がクーデターでも計画しているのではないかと誤解し、両名を海外に出す事を決めた。
昭和19年7月18日、東条内閣は総辞職、22日には小磯内閣が誕生した。参謀総長は梅津美治郎陸軍大将、軍令部総長は及川古志郎海軍大将が就任した。
だが大西と遠藤の転任問題は消えておらず、遠藤中将は第四航空軍司令官、大西中将は第一航空艦隊司令長官として、共に比島に派遣される話が進められていた。
藤原軍需大臣から同時転任は総局の業務に支障を来たすとの抗議があり、先に大西海軍中将が先に転任し、遠藤中将の代わりに、陸軍次官であった富永恭次中将が第四航空軍司令官として比島に転任した。
富永中将は後に比島作戦がうまく行かず、第四航空軍も壊滅に近づいた時、部下の諸隊を残して軍司令部のみが台湾に退避した。陸軍当局は激怒して即時、富永中将の職を免じ、予備役にした。
そして陸軍当局は富永中将の後任に遠藤中将を充てようとしたが、当時の軍需大臣・吉田茂が「遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ。遠藤を転任さすなら大臣を辞任する」と強硬に反対し、転任は中止された。
「ローマ大使館参事官が『強制される事を嫌うのは人間の自然性なるが故に徴兵制をやめて志願制にしては』といっておった。井上海軍中佐は『金〈給料〉次第で出来ぬ事もなかろう』と返事した。予は大不賛成だ。崇高なる国民の義務を果たすのは、ひとつの名誉である。軍隊を職業化することは精神的な堕落である」
遠藤日記にも時代よりも一歩先を進むリベラリスト、井上の片鱗がのぞく。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、戦雲急を告げ、杉山元帥から「飼い殺しだ」と言われた航空士官学校校長の職も五ヶ月で別れを告げ、昭和18年5月、遠藤中将は陸軍航空本部と陸軍航空総監部の両方の総務部長を兼務し、さらに大本営幕僚も兼務する事になった。
遠藤中将が北海道、千島、樺太方面の視察に出発の挨拶に東條首相のところに出向くと、東條首相は「今君に死なれては困る。目下同方面の気象状況不良故、旅行を中止してはどうか」と注意された。遠藤は「昭和7年初頭上海事件以来遠藤を嫌っていた筈の東條大将の言としてはいがいなことでありました」と記している。
遠藤中将は東條大将の注意を無視して長島少佐を伴い、予定通り旅行を実施したが、8月8日帯広から占守島に向かう途中千島特有のガスに遭遇し八時間雲の中をさまよい危なく海の藻屑となるところであった。
機長が戦隊随一の優秀者平岩大尉であったので適切な操縦で帰還する事ができた。
昭和18年、東條首相は、従来の企画院と商工省を合体し、それに陸海軍航空の生産部門を統合した航空兵器総局を加え、これを軍需省として11月1日正式に発足させた。
軍需大臣は東條首相が兼務し、次官には岸信介、総動員局長に椎名悦三郎、航空兵器総局長官に遠藤三郎中将を発令した。
航空兵器総局長官・遠藤中将の配下で、遠藤長官が最も信頼を寄せていたのは総務局長の大西瀧治郎海軍中将であった。
昭和19年6月、大西中将は、海軍大臣嶋田繁太郎大将に意見具申書を提出した。要旨は人事の刷新により戦勢を挽回しようとするものであった。
嶋田大将は兼任の軍令部総長の職を末次大将に譲って、海軍次官には多田中将、軍令部次長には大西中将自身が就任するというものであった。
遠藤中将はこの血涙を以って綴られた意見書に感激を覚えた。特にこの難局に際し自ら求めて最も困難な職に就こうとするその勇気に打たれた。
だが遠藤が理解に苦しんだのは、その意見書に「遠藤中将を陸軍参謀次長にせよ」との条件がついていることだった。遠藤は自分にはその勇気も自信もなく、第一陸軍当局が承知するはずがなかった。
この意見書を見た当局は相当大きなショックを受けたらしく、遠藤と大西がクーデターでも計画しているのではないかと誤解し、両名を海外に出す事を決めた。
昭和19年7月18日、東条内閣は総辞職、22日には小磯内閣が誕生した。参謀総長は梅津美治郎陸軍大将、軍令部総長は及川古志郎海軍大将が就任した。
だが大西と遠藤の転任問題は消えておらず、遠藤中将は第四航空軍司令官、大西中将は第一航空艦隊司令長官として、共に比島に派遣される話が進められていた。
藤原軍需大臣から同時転任は総局の業務に支障を来たすとの抗議があり、先に大西海軍中将が先に転任し、遠藤中将の代わりに、陸軍次官であった富永恭次中将が第四航空軍司令官として比島に転任した。
富永中将は後に比島作戦がうまく行かず、第四航空軍も壊滅に近づいた時、部下の諸隊を残して軍司令部のみが台湾に退避した。陸軍当局は激怒して即時、富永中将の職を免じ、予備役にした。
そして陸軍当局は富永中将の後任に遠藤中将を充てようとしたが、当時の軍需大臣・吉田茂が「遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ。遠藤を転任さすなら大臣を辞任する」と強硬に反対し、転任は中止された。