だが、旅順要塞は、ロシア軍が十年の歳月と巨額の金をかけて最新科学の粋を尽くした大要塞で、その湾内には太平洋艦隊を擁し、四万二千人の精鋭が守りについている難攻不落の大要塞だった。
しかも、これを指揮するのは勇名高きアナトーリ・ステッセル陸軍中将(サンクトペテルブルク・ドイツ系の男爵家・パブロフスキー士官学校卒・露土戦争で第一六歩兵連隊長・義和団の乱で第三東シベリア狙撃旅団長・陸軍中将・旅順要塞司令官・第三シベリア軍団長・軍法会議で死刑判決・乃木大将の除名運動で特赦となり禁錮十年・軍を追放される・モスクワで茶商人として余生を送る)だった。
だが、乃木大将は、勝算があると確信していた。日清戦争のとき、当時も旅順は難攻不落と言われ、当時の軍事専門家たちが、十万人の強兵をもってしても、半年かからなければ陥落しないであろうと言っていたのを、日本軍は立った、半日で陥落させたのだった。
その時の攻略戦に乃木大将も参加していた。乃木大将は、忠勇死を恐れぬ我が日本軍の攻撃の前では、支那軍が守ろうが、ロシア軍が守ろうが、結果は同じだと、堅く信じていたのだった。
旅順総攻撃を前にした明治三十七年八月十六日、明治天皇は旅順の非戦闘員たちを死傷せしめることがないように、乃木大将に非戦闘員たちを安全退去せしめることを勧告するように命じた。
そこで乃木大将は連合艦隊司令長官・東郷海軍大将と相談をして、連名で司令官・ステッセル中将に対して、降伏の勧告文を手渡した。このような状況から見て、日本軍の態度は、すでに敵のロシア軍をのんでいた。旅順はすぐに攻略できると考えての高飛車な勧告文だった。
乃木大将自身も、ある程度の犠牲を覚悟すれば、一回の総攻撃で旅順の本防御線を突破して、旅順港の死命を制し得ると考えていたと言われている。
だが、この判断の甘さは、乃木大将や第三軍司令部だけでなく、乃木の上部軍である満州軍総司令部も、広島の大本営でも、日本帝国海軍も、日本国民一般の人々も、皆同様な判断をしていた。
日露戦争開戦前、日本国中は、悲壮な空気で押し包まれていた。「この戦争で、国が破れたら、日本は永久にロシアに隷属させられるかも知れない」という不安がみなぎっていた。
ところが、開戦してみると、戦争は想像以上にうまく運んだ。陸に、海に、日本軍は連戦連勝で、ロシア軍を撃破していった。そこで安心感が出て、旅順のことなど、さほど重大に考えなくなっていたのだった。
陸軍中枢部では、旅順は一部の軍団で押さえておけば、あんなものはほっといていい、どんどん北進できるものと考えていた。何といっても日清戦争のときの旅順戦の大勝利の観念が抜けきらなかった。
ある日本海軍の将校が、次のように言っていたという。「旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる。だから、陸軍は、我々に旅順を任せて、先に進んでもらってもよろしい」。
あの知将と言われた満州軍総参謀長・児玉源太郎大将でさえ、楽観的であったと言われている。開戦前の三月上旬に参謀本部部長会議の席上で、当時参謀次長であった児玉中将は「今旅順の後方を竹の柵で囲むとすれば、どれだけの材料がいるか調べているところである。これは敵兵が脱出するのを防ぐために作るのである」と発言して、一同大笑いしたという話さえ伝わっている。
さて、日本側の降伏の勧告文を手にしたステッセル中将は、翌日、日本側の軍使に「たとえ一兵たりともロシア兵が残っている限りは、旅順を日本軍の手にゆだねることはしない」という回答文を手渡した。
そこで乃木大将は、いよいよ旅順に対する総攻撃を八月十八日と定めた。だが、天候が悪かったため、一日延びて、八月十九日に総攻撃は決行された。
十九日と二十日に、砲撃戦が行われた。旅順要塞の各砲台からも一斉に反撃してきた。日本軍は猛砲撃を加えた。敵の堡塁の形が変わるほどだった。乃木大将の第三軍司令部では、これくらいたたいておけば、あとは、強襲で落とすことができると判断した。
そこで、八月二十一日未明、三個師団に対して、突撃命令を出した。日本軍の将兵たちは勇躍して突撃に移った。だが、ロシア軍が使用した機関銃は極めて優秀だった。機関銃をよく知らない日本軍の兵士たちは、ワ~と雄叫びを上げて一団となって突進していった。
待ち構えていたロシア軍は、多数の機関銃で、ほうきで掃くように、その日本軍の兵士たちを、なぎ倒した。肉弾に次ぐ肉弾で、日本軍の兵力はみるみる減っていった。
日本側は、これは大変な要塞だと、感じ始めたが、もうどうしようもなかった。攻撃は、翌二十三日も繰り返された。二十四日の朝、乃木大将が双眼鏡でながめると、山の形が変わってしまう程に、日本兵の死骸で埋まっていた。
しかも、これを指揮するのは勇名高きアナトーリ・ステッセル陸軍中将(サンクトペテルブルク・ドイツ系の男爵家・パブロフスキー士官学校卒・露土戦争で第一六歩兵連隊長・義和団の乱で第三東シベリア狙撃旅団長・陸軍中将・旅順要塞司令官・第三シベリア軍団長・軍法会議で死刑判決・乃木大将の除名運動で特赦となり禁錮十年・軍を追放される・モスクワで茶商人として余生を送る)だった。
だが、乃木大将は、勝算があると確信していた。日清戦争のとき、当時も旅順は難攻不落と言われ、当時の軍事専門家たちが、十万人の強兵をもってしても、半年かからなければ陥落しないであろうと言っていたのを、日本軍は立った、半日で陥落させたのだった。
その時の攻略戦に乃木大将も参加していた。乃木大将は、忠勇死を恐れぬ我が日本軍の攻撃の前では、支那軍が守ろうが、ロシア軍が守ろうが、結果は同じだと、堅く信じていたのだった。
旅順総攻撃を前にした明治三十七年八月十六日、明治天皇は旅順の非戦闘員たちを死傷せしめることがないように、乃木大将に非戦闘員たちを安全退去せしめることを勧告するように命じた。
そこで乃木大将は連合艦隊司令長官・東郷海軍大将と相談をして、連名で司令官・ステッセル中将に対して、降伏の勧告文を手渡した。このような状況から見て、日本軍の態度は、すでに敵のロシア軍をのんでいた。旅順はすぐに攻略できると考えての高飛車な勧告文だった。
乃木大将自身も、ある程度の犠牲を覚悟すれば、一回の総攻撃で旅順の本防御線を突破して、旅順港の死命を制し得ると考えていたと言われている。
だが、この判断の甘さは、乃木大将や第三軍司令部だけでなく、乃木の上部軍である満州軍総司令部も、広島の大本営でも、日本帝国海軍も、日本国民一般の人々も、皆同様な判断をしていた。
日露戦争開戦前、日本国中は、悲壮な空気で押し包まれていた。「この戦争で、国が破れたら、日本は永久にロシアに隷属させられるかも知れない」という不安がみなぎっていた。
ところが、開戦してみると、戦争は想像以上にうまく運んだ。陸に、海に、日本軍は連戦連勝で、ロシア軍を撃破していった。そこで安心感が出て、旅順のことなど、さほど重大に考えなくなっていたのだった。
陸軍中枢部では、旅順は一部の軍団で押さえておけば、あんなものはほっといていい、どんどん北進できるものと考えていた。何といっても日清戦争のときの旅順戦の大勝利の観念が抜けきらなかった。
ある日本海軍の将校が、次のように言っていたという。「旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる。だから、陸軍は、我々に旅順を任せて、先に進んでもらってもよろしい」。
あの知将と言われた満州軍総参謀長・児玉源太郎大将でさえ、楽観的であったと言われている。開戦前の三月上旬に参謀本部部長会議の席上で、当時参謀次長であった児玉中将は「今旅順の後方を竹の柵で囲むとすれば、どれだけの材料がいるか調べているところである。これは敵兵が脱出するのを防ぐために作るのである」と発言して、一同大笑いしたという話さえ伝わっている。
さて、日本側の降伏の勧告文を手にしたステッセル中将は、翌日、日本側の軍使に「たとえ一兵たりともロシア兵が残っている限りは、旅順を日本軍の手にゆだねることはしない」という回答文を手渡した。
そこで乃木大将は、いよいよ旅順に対する総攻撃を八月十八日と定めた。だが、天候が悪かったため、一日延びて、八月十九日に総攻撃は決行された。
十九日と二十日に、砲撃戦が行われた。旅順要塞の各砲台からも一斉に反撃してきた。日本軍は猛砲撃を加えた。敵の堡塁の形が変わるほどだった。乃木大将の第三軍司令部では、これくらいたたいておけば、あとは、強襲で落とすことができると判断した。
そこで、八月二十一日未明、三個師団に対して、突撃命令を出した。日本軍の将兵たちは勇躍して突撃に移った。だが、ロシア軍が使用した機関銃は極めて優秀だった。機関銃をよく知らない日本軍の兵士たちは、ワ~と雄叫びを上げて一団となって突進していった。
待ち構えていたロシア軍は、多数の機関銃で、ほうきで掃くように、その日本軍の兵士たちを、なぎ倒した。肉弾に次ぐ肉弾で、日本軍の兵力はみるみる減っていった。
日本側は、これは大変な要塞だと、感じ始めたが、もうどうしようもなかった。攻撃は、翌二十三日も繰り返された。二十四日の朝、乃木大将が双眼鏡でながめると、山の形が変わってしまう程に、日本兵の死骸で埋まっていた。