陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

187.東條英機陸軍大将(7) 東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない

2009年10月23日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十七年九月五日、ボルネオ守備軍司令官・前田利為中将(陸士一七・陸大二三恩賜)は、飛行機事故で死去し、陸軍大将に昇進した。

 前田大将は、旧加賀藩主、前田本家十六代目当主で侯爵だった。東條首相とは陸士同期だったが、在職中は東條批判派として東條からは敬遠されていた。

 「華族~明治百年の側面史」(講談社)によると、前田大将の長女、酒井美意子氏が、前田大将は東條に批判的であったと述べている。

 昭和十二年、前田中将は第八師団長で満州に出征していた。当時、関東軍の作戦計画が前田中将の考えと違うので、たびたび意見具申していた。

 関東軍は結局、前田中将の作戦計画に従ったが、当時の関東軍参謀長は東條英機中将だった。東條中将と前田中将は、机をたたいて激論を交わしたといわれている。

 前田中将が満州から帰り、東條が陸軍次官になると、昭和十四年一月三十一日、前田中将は予備役に編入された。

 前田中将は三国同盟に絶対反対の立場をとっていた。また、無謀な戦争は極力回避すべきと主張していた。前田中将は「東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない。あれでは国をあやまる」と言っていたという。

 酒井美意子氏によると、前田中将は昭和十七年九月五日、軍用機でラブアン島に作戦命令で飛行中に、ビンヅル沖の海に撃墜されたとのことだった。

 現地で軍葬が執り行われる直前に、「戦死という字を使わず、陣歿とせよ」という指令が内地からきたので、弔辞を書きかえたりして大騒ぎをしたそうである。飛行機事故であるが、墜落原因ははっきりせず、事故死と推定された。だが、後日、「戦死」と訂正発表された。

 一説には東條に批判的だったため、招集され、ボルネオ軍守備隊司令官として南方の激戦地に飛ばされたといわれている。だが、ボルネオ島はそれほど激戦地とはいえなかった。

 「作戦部長、東條ヲ罵倒ス」(田中新一・芙蓉書房)の著者、田中新一元陸軍中将(陸士二五・陸大三五)は、太平洋戦争開戦時、陸軍参謀本部第一(作戦)部長であった。田中中将は、昭和十五年十月から、昭和十七年十二月まで、作戦部長として中枢で戦争指導に当たった。

 太平洋戦争は昭和十六年十二月八日、日本の真珠湾攻撃で勃発した。その八ヵ月後の昭和十七年八月七日に米軍がガダルカナル島上陸して以来、ガダルカナル島の争奪をめぐり日米が死力を尽くして闘ってきた。

 日本の太平洋戦略において、ガ島の放棄は許されない状況で、日本軍は川口支隊、第二師団、第三十八師団と次々と兵力を投入した。

 第一次~三次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ルンガ沖夜戦など海空の兵力も集中し、ガ島奪回に躍起になった。だが、戦局は好転せず、日々消耗戦の様相で、劣勢となっていった。輸送船舶の消耗もひどかった。

 昭和十七年十一月から十二月の初めにかけて、ガ島への船舶増徴の問題をめぐって、陸軍省と参謀本部が正面切って対決した。

 ガ島作戦の完遂こそが、太平洋作戦の勝利のきっかけであるという根本的見解を、参謀本部の田中新一作戦部長は東條陸軍大臣に対して説明、諒解をとりつけてあった。

 元々、ガ島への輸送用船舶は二十万トンと定められていたが、参謀本部は三十七万トンの増徴を陸軍省に要求していた。だが、政府はガ島方面でのこれまでの船舶消耗の実態を理由に、これに消極的だった。

 十二月五日の閣議で、ガ島方面への陸軍船舶について参謀本部の要望に応じられないとの閣議決定が行われた。当時の首相は陸軍大臣を兼務していた東條英機大将(陸士一七・陸大二七)だった。

 同日、企画院総裁・鈴木貞一中将(陸士二二・陸大二九)は、参謀本部次長・田辺盛武中将(陸士二二・陸大三〇)に電話で「会議の結果、陸軍統帥部の要望には応じられないことになった」と伝え、詳細について説明した。

 温厚な田辺中将は、強いて鈴木総裁と抗争することをしなかった。両中将が士官学校同期生という事情もあったのかもしれない。

 だが田中作戦部長は、急迫に急迫を告げているガ島の危機を思うと黙っていられなかった。田中作戦部長は「閣議が独断で、作戦の要求を無視する」ことについて鈴木総裁をなじった。