三笠宮は陸軍士官学校四十八期、津野田元少佐は五十期で先輩・後輩の間柄でもあった。当時津野田元少佐は電源開発株式会社秘書役で民間人だった。
その民間人が天皇の弟宮である三笠宮と一対一で会うことは、常識からいって考えられなかった。別邸の応接間で津野田元少佐は三笠宮と会った。
しばらく二人は、世間話をした。そのあと、三笠宮は「私も君には迷惑をかけた。済まなく思っている」と言って低頭された。
津野田元少佐は「殿下、そのことは、一切、水にながしましょう。世間にも、発表はしません」と答えた。だが、津野田元少佐が昭和六十二年に死去した後、「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)が出版され、全て明らかにされた。
「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によるとサイパン戦前後から、政府統帥部の戦争指導に不満を持つ海軍中堅層の間に、東條政権を倒すためには合法的手段をあきらめ、テロによって倒すしかないという、せっぱ詰まった空気が出てきた。
「細川日記」(近衛文麿の秘書官、細川護貞の日記)によると、昭和十九年五月一日、海軍懇談会が開かれ、席上、テロによる東條政権倒壊工作に話が集中した。
中山貞義海軍中佐(海兵五四恩賜・海大三六、戦後海上幕僚長)の回想によれば、海軍省内においても、大臣室の前に番兵が立つようになった。
中山の部下の橋本睦男主計大尉などは、嶋田繁太郎海軍大臣(海兵三二・海大一三)に対するテロを半公然と口にしており、翻意させるのを非常に苦労したと中山は述べている。
神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)などは、「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった。海軍部内の空気は一触即発の状況だった。
事ここに至って、それまで神大佐らの計画に再三ブレーキをかけてきた教育局長の高木惣吉少将(海兵四三・海大二五首席)も「私の納得できる確実な具体的方法を研究してみせろ」と、全責任を背負う覚悟で命じた。
高木少将と神大佐らが中心となって東條首相暗殺の具体的方法を検討した結果、数台の自動車を使って作為的に交通事故を起こし、併せて拳銃でとどめをさすという方法が、最も確実性があるということになった。
決行日は七月二十日(木)と決まった。東條が宮中での閣議から官邸に帰る途中を狙うことにした。決行場所は海軍省の手前の四つ角ということにした。
ここだと海軍省内や大審院、内務省側に車を待機させておき、はさみうちにできる。東條首相のオープンカーが四つ角にさしかかるところで、前と両側から進路を押さえて襲撃できる。
実行後、現場から脱出できた者は、連合艦隊司令部の作戦参謀・神大佐により、厚木航空隊から台湾かフィリピンに高飛びさせることも計画していた。
だが、六月十九日、マリアナ沖海戦に伴い、部内の人事異動があり、同志が転任したため、テロ計画は縮小せざるを得なかった。
さらに、この東條暗殺計画は決行予定日の前日、昭和十九年七月十九日に、東條内閣が総辞職したため、未遂に終わった。
戦後、この計画に関して、半藤一利(文藝春秋編集委員長)から質問を受けた時、高木元少将は次の様に述懐した。
「後で知って、驚きましたね。われわれが決めた七月二十日には、ドイツではヒットラー暗殺未遂事件(ワルキューレ作戦)が起こっているんですね。かりに決行して、殺さないまでも、怪我でもさせていたら、いくら陸軍部内に反東條派が多くいるといっても、そこはそれ、海軍が手を出したとなると、その後の終戦工作にもヒビが入って、日本は果たしてどうなっていたかと、それを思うと、やはり若気の至りというほかはないですね」
「東条英機 暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、昭和十九年六月二十七日午前、東條首相の秘書官、赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)が重臣の岡田啓介海軍大将の自宅に国民服姿でやってきた。
挨拶をすますと、赤松大佐は用件を切り出し、「大将が嶋田さんのことなどを工作されるので、総理は怒っておられます。海軍の長老として、海軍大臣を補佐すべき地位にあるにもかかわらず、伏見宮殿下や高松宮殿かを煩わし、また宸襟を悩まし奉るが如きは、甚だ不都合ではありませんか。そのような陰険な謀略はやめていただきたい」と言った。
その民間人が天皇の弟宮である三笠宮と一対一で会うことは、常識からいって考えられなかった。別邸の応接間で津野田元少佐は三笠宮と会った。
しばらく二人は、世間話をした。そのあと、三笠宮は「私も君には迷惑をかけた。済まなく思っている」と言って低頭された。
津野田元少佐は「殿下、そのことは、一切、水にながしましょう。世間にも、発表はしません」と答えた。だが、津野田元少佐が昭和六十二年に死去した後、「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)が出版され、全て明らかにされた。
「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によるとサイパン戦前後から、政府統帥部の戦争指導に不満を持つ海軍中堅層の間に、東條政権を倒すためには合法的手段をあきらめ、テロによって倒すしかないという、せっぱ詰まった空気が出てきた。
「細川日記」(近衛文麿の秘書官、細川護貞の日記)によると、昭和十九年五月一日、海軍懇談会が開かれ、席上、テロによる東條政権倒壊工作に話が集中した。
中山貞義海軍中佐(海兵五四恩賜・海大三六、戦後海上幕僚長)の回想によれば、海軍省内においても、大臣室の前に番兵が立つようになった。
中山の部下の橋本睦男主計大尉などは、嶋田繁太郎海軍大臣(海兵三二・海大一三)に対するテロを半公然と口にしており、翻意させるのを非常に苦労したと中山は述べている。
神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)などは、「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった。海軍部内の空気は一触即発の状況だった。
事ここに至って、それまで神大佐らの計画に再三ブレーキをかけてきた教育局長の高木惣吉少将(海兵四三・海大二五首席)も「私の納得できる確実な具体的方法を研究してみせろ」と、全責任を背負う覚悟で命じた。
高木少将と神大佐らが中心となって東條首相暗殺の具体的方法を検討した結果、数台の自動車を使って作為的に交通事故を起こし、併せて拳銃でとどめをさすという方法が、最も確実性があるということになった。
決行日は七月二十日(木)と決まった。東條が宮中での閣議から官邸に帰る途中を狙うことにした。決行場所は海軍省の手前の四つ角ということにした。
ここだと海軍省内や大審院、内務省側に車を待機させておき、はさみうちにできる。東條首相のオープンカーが四つ角にさしかかるところで、前と両側から進路を押さえて襲撃できる。
実行後、現場から脱出できた者は、連合艦隊司令部の作戦参謀・神大佐により、厚木航空隊から台湾かフィリピンに高飛びさせることも計画していた。
だが、六月十九日、マリアナ沖海戦に伴い、部内の人事異動があり、同志が転任したため、テロ計画は縮小せざるを得なかった。
さらに、この東條暗殺計画は決行予定日の前日、昭和十九年七月十九日に、東條内閣が総辞職したため、未遂に終わった。
戦後、この計画に関して、半藤一利(文藝春秋編集委員長)から質問を受けた時、高木元少将は次の様に述懐した。
「後で知って、驚きましたね。われわれが決めた七月二十日には、ドイツではヒットラー暗殺未遂事件(ワルキューレ作戦)が起こっているんですね。かりに決行して、殺さないまでも、怪我でもさせていたら、いくら陸軍部内に反東條派が多くいるといっても、そこはそれ、海軍が手を出したとなると、その後の終戦工作にもヒビが入って、日本は果たしてどうなっていたかと、それを思うと、やはり若気の至りというほかはないですね」
「東条英機 暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、昭和十九年六月二十七日午前、東條首相の秘書官、赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)が重臣の岡田啓介海軍大将の自宅に国民服姿でやってきた。
挨拶をすますと、赤松大佐は用件を切り出し、「大将が嶋田さんのことなどを工作されるので、総理は怒っておられます。海軍の長老として、海軍大臣を補佐すべき地位にあるにもかかわらず、伏見宮殿下や高松宮殿かを煩わし、また宸襟を悩まし奉るが如きは、甚だ不都合ではありませんか。そのような陰険な謀略はやめていただきたい」と言った。