陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

363.黒島亀人海軍少将(3)よかろう。十に一つよいことができるなら使ってみる値打ちはある

2013年03月07日 | 黒島亀人海軍少将
 「黒島亀人伝」(香川亀人)の序文に、元海軍大臣・軍令部総長・嶋田繁太郎大将(東京・海兵三二・海大一三・イタリア駐在武官・海大教官・戦艦「比叡」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・呉鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍令部総長)は次のように記している。

 「……黒島亀人君は英明の資質と高潔な人格に加うるに、(中略)特に創意工夫案出の天稟(てんぴん)に恵まれ、(中略)真に頼もしい武人でありました。(中略)山本五十六元帥もまた黒島君をすこぶる有能な幕僚として賞揚し、安心して信頼しおる旨話され……」。

 以上の話から、黒島亀人の創意工夫の能力が海軍中央でも高く評価され、山本五十六にも信頼されていたことが伺える。

 昭和十三年十一月、黒島は海軍大佐に昇進し、海軍大学の教官に任ぜられ、一年間海軍戦略を教えた。

 昭和十四年八月三十日、山本五十六中将は、連合艦隊司令長官に親補され、旗艦の戦艦「長門」(三九一二〇トン)に着任した。

 このとき、海軍省人事局は、黒島と兵学校同期の島本久五郎大佐(和歌山・海兵四四・海大二八・軍令部・海大教官・人事局第一課長・第六艦隊参謀長・少将・第三南遣艦隊参謀長・南西方面艦隊参謀副長)を連合艦隊先任参謀候補に考えていた。

 島本大佐は長いアメリカ勤務の体験もあり、軍令部でのキャリアもあり、山本五十六中将の補佐役として申し分がなかった。

 だが、山本五十六中将は、島本久五郎大佐を選ぶことなく、黒島亀人大佐を補任するという破天荒な人事を断行した。

 昭和十四年秋頃、人事局長・伊藤整一少将(福岡・海兵三九・海大二一恩賜・米国駐在・大佐・中華民国駐在・人事局第一課長・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・人事局長・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・海大校長・第二艦隊司令長官・戦死・大将・功一級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章)が、当時連合艦隊参謀長に内定していた福留繁大佐に向かって次のように言った。

 「黒島というのは、なかなかの逸材だぞ。無愛想な男だが、面白い発想をする。しかも努力家だ。使ってみたらどうだ」。

 福留大佐はこれを山本長官に伝えた。すると、山本長官は「そうか。そんなに面白い男か」と、少し考えたあと、うなずいて「よかろう。十に一つよいことができるなら使ってみる値打ちはある」と言ったという。

 「四人の連合艦隊司令長官」(吉田俊雄・文春文庫)によると、著者の吉田俊雄(長崎・海兵五九・海大選科・重巡洋艦「妙高」分隊長・軍令部・永野修身元帥副官・米内光政大臣副官・嶋田繁太郎大臣副官)は、この人事について、次のように述べている。

 「山本の考えを推理すると、山本自身の『戦争』思考の、軍政的発想による。『作戦』研究ばかりをしている軍令部のあり方に批判的である」

 「また彼自身、航空主兵思想で、対米作戦構想の再構築を考えているので、なまなかに伝統的兵術思想の化身みたいのが来ても困る」

 「そんなものにとらわれず、新しいアイデアを想像できるものが欲しいと、アイデア参謀を求めたのであろう」。

 「山本は折にふれて幕僚を冷やかしたそうだ。『君たちに質問すると、いつでも皆おなじ答えをする。顔も違えば考えが違っているはずだが、黒島だけではないか、違うのは』。黒島重用の弁である」。

 連合艦隊司令長官に就任した山本五十六中将は、仮想敵国アメリカとの対決の日が近いことを予想して、その日に備えた。

 戦略、戦術を考えるのに、片腕が必要であった。先任参謀である。海軍中央で、ひたすらエリートコースを歩んできた人物であってはつまらない。キラリと光る個性の持ち主でありたい。

 エリートコースを歩んできた秀才の石頭からは、なにも新しいことは生まれてこない。単なる優等生の従来の戦術、戦略にがんじがらめになった発想からは、革新的な作戦は生まれてくることはない。

 昭和十四年十月二十日、黒島亀人大佐は、海軍大学校教官から、連合艦隊先任参謀兼第一艦隊参謀に補任された。山本五十六中将は黒島亀人大佐を選んだ。

 これは意表を衝く人事だった。海軍関係者の多くは、ひどく懐疑的だった。だが、海軍中央が、この破天荒の人事を断行した背景には、山本五十六中将に対する期待と信頼があった。

 あの山本長官が、それほど黒島大佐の起用に固執するなら、前例こそないが、ここは一つ、思い切って黒島大佐を先任参謀にやらせてみようと。

 「昭和史の軍人たち」(秦郁彦・文春文庫)によると、日米戦争必至の空気が濃くなってきた昭和十五年頃、若手の海軍士官が集まると、「連合艦隊の先任参謀は誰が最適か」という議論が出た。このポストは日露戦争の名参謀・秋山真之の役割になる。

 もちろん、当時の先任参謀はすでに黒島亀人大佐だった。それにもかかわらず、このような議論が行われているのは、黒島大佐の先任参謀は、短期間で交代必須で、日米戦争に突入のためには新たな参謀が着任すると思われていた。当時、黒島大佐の知名度は低かったし、その能力は、誰も買っていなかった。