陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

51.田中隆吉陸軍少将(1) 「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った

2007年03月09日 | 田中隆吉陸軍少将
 「人物陸大物語」(光人社)の著者、甲斐克彦氏は田中隆吉について、「正直に言ってこの人物については、書きたくない気分だ」と述べている。

 戦後、旧軍の総括が何度かあって、旧軍人から義絶を申し渡され、反逆者扱いされた者が二人いる。

 一人はこの「陸海軍けんか列伝」でもすでに紹介した、再軍備無用論で戦後社会党から参議院に立候補した遠藤三郎陸軍中将。

 もう一人が、東條裁判で検事側証人になり、暴露的証言を行って、彼自身のいう「恩人」東條英機以下の絞首刑を手伝った田中隆吉陸軍少将である。

 甲斐氏はそのときのニュース映画を見たとき、弁護団の反対尋問で、「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った、その顔の印象が強すぎ、肝心の返答を聞きもらしてしまった、と記している。

 「現実暴露の悲哀」という言葉がある。昭和20年11月6日に日本に到着したキーナン検事が注目したのは、陸軍少将で兵務局長の要職にあったにもかかわらず、陸軍を追われた田中隆吉であった。

 キーナンは田中に接触し、検事側の証人になるよう求めた。田中は証人台に立った。

 またキーナンの証人として裁判中に田中は昭和21年1月、山水社から「敗因を衝く、軍閥専横の実相」を発行した。

 自分の体験を中心にした本で、第二次大戦以前及び開戦から終戦までの東條を中心とする軍上層部の闇を内部告発し暴露したのである。世間は驚きの渦に巻き込まれた。

 さらに昭和22年10月に「日本軍閥暗闘史」(静和堂書店)を発刊している。

 日本帝国軍の明治初期の長州、薩摩の縄張り争いに端を発した軍の派閥抗争を終戦に至るまでを詳細に記録した本である。

 これらのことにより、旧軍人や国民から田中隆吉は轟々たる非難を浴びた。

 では田中隆吉の暴露は真実ではなかったのだろうか。非難の中に「田中は嘘を言っている」といったものは殆ど無かった。このことは真実が「堕ちた偶像」をつくり「現実暴露の悲哀」を生み出したに過ぎないし、田中隆吉はその役前を果たしただけだったともいえる。

 田中隆吉は陸軍士官学校は、遠藤三郎と同じ26期で、ともに砲兵。陸軍大学校も同じ34期で、遠藤は5位の恩賜組だが、田中は68人中の20位だった。

 田中は後年「上海事変はこうして起こされた」(別冊知性・昭和31年12月号)で「私の半生はいわば陰謀工作に始終したと言ってよい」と述べている。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、昭和6年の満州事変後、昭和7年1月、満州国の成立過程において、たまたま上海において日華両軍の衝突事件が起り、戦渦が中支に拡大した。これが第一次上海事変である。

 この第一次上海事変の発端は満州国の建国を容易にするため、列国の関心を上海に向ける方針で企てられた謀略に発するものだった。そのときの火付け役が、上海の駐在武官補佐官の田中隆吉少佐であった。


1 コメント

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細かい話で恐縮ですが (ziebzig)
2007-05-04 09:21:25
はじめまして。興味深く拝読しております。

>またキーナンの証人として裁判中に田中は昭和21年1月、山水社から「敗因を衝く、軍閥専横の実相」を発行した。

裁判の開廷は5月ですし、粟屋賢太郎氏の『東京裁判への道』によれば検察が田中少将にはじめて接触したのは同年2月とのことですから、前後関係でいえば『敗因を衝く』の出版の方が先ですね。
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