外務省とは別に大東亜省を設置すると主張する東條首相はこれに反対する東郷外相と対立していた。
東郷外相は田中兵務局長に相談した。
田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出るか、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えた。
昭和17年9月22日田中少将は東條首相に辞表を提出した。
東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと田中少将は述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある。
谷田勇中将は田中少将と広島幼年学校以来、親交を続けている仲である。
昭和18年5月初旬、谷田中将がラバウルに赴任する前、祖先の墓参を済まし、長岡温泉の旅館「大和館」に寄った。
その時玄関脇の帳場で、浴衣で、どかりと座り、碁を打っている入蛸坊主がいた。それが田中少将だった。
谷田中将は、田中少将が陸軍省を追われ、国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、、長岡で会ったのは驚いた。
その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ馬鹿な奴らだ」と言ったという。
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和6年3月に参謀本部の建川少将、重藤大佐、橋本中佐、長少佐を中心に計画されたクーデター「3月事件」は宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されていた。
「3月事件」は未遂に終わったが、その「3月事件」の民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「大嘘つき」と罵倒したことがあった。
それは宇垣大将が外務大臣当時、大川博士が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束しながら、宇垣大将がそれを実行しなかったからだ。
昭和19年12月末、田中少将は、宇垣大将と大川博士と共に、伊豆長岡の大和屋温泉で会食した。
その時、大川博士が、白鳥敏夫次官推薦問題を話しに持ち出した。
すると宇垣大将は面上朱をそそいで怒って「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあった。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言った。
大川博士は、これを肯定し、嘘つきとの言葉を取り消した。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和24年9月15日深夜、田中は自殺をはかったが、未遂に終わった。
遺書には東京裁判での一連の証言が、元軍人として不当な行為であることを充分承知した上で、天皇の出廷阻止のため、あえてなしたことを記してあった。
さらに、「既往を顧みれば我も又確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず」と書かれてあった(田中稔「父のことども」)。
田中は後日、宮内庁から下賜品を賜っている。このことは現在の宮内庁の公式書類には残されていない。
だが、田中は涙を浮べて、元陸軍中将、谷田勇氏に下賜品を賜ったことを語ったという。田中は昭和47年、78歳で死去した。
(今回で「田中隆吉陸軍少将」は終わりです。次回からは「南雲忠一中将」が始ります)
東郷外相は田中兵務局長に相談した。
田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出るか、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えた。
昭和17年9月22日田中少将は東條首相に辞表を提出した。
東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと田中少将は述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある。
谷田勇中将は田中少将と広島幼年学校以来、親交を続けている仲である。
昭和18年5月初旬、谷田中将がラバウルに赴任する前、祖先の墓参を済まし、長岡温泉の旅館「大和館」に寄った。
その時玄関脇の帳場で、浴衣で、どかりと座り、碁を打っている入蛸坊主がいた。それが田中少将だった。
谷田中将は、田中少将が陸軍省を追われ、国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、、長岡で会ったのは驚いた。
その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ馬鹿な奴らだ」と言ったという。
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和6年3月に参謀本部の建川少将、重藤大佐、橋本中佐、長少佐を中心に計画されたクーデター「3月事件」は宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されていた。
「3月事件」は未遂に終わったが、その「3月事件」の民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「大嘘つき」と罵倒したことがあった。
それは宇垣大将が外務大臣当時、大川博士が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束しながら、宇垣大将がそれを実行しなかったからだ。
昭和19年12月末、田中少将は、宇垣大将と大川博士と共に、伊豆長岡の大和屋温泉で会食した。
その時、大川博士が、白鳥敏夫次官推薦問題を話しに持ち出した。
すると宇垣大将は面上朱をそそいで怒って「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあった。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言った。
大川博士は、これを肯定し、嘘つきとの言葉を取り消した。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和24年9月15日深夜、田中は自殺をはかったが、未遂に終わった。
遺書には東京裁判での一連の証言が、元軍人として不当な行為であることを充分承知した上で、天皇の出廷阻止のため、あえてなしたことを記してあった。
さらに、「既往を顧みれば我も又確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず」と書かれてあった(田中稔「父のことども」)。
田中は後日、宮内庁から下賜品を賜っている。このことは現在の宮内庁の公式書類には残されていない。
だが、田中は涙を浮べて、元陸軍中将、谷田勇氏に下賜品を賜ったことを語ったという。田中は昭和47年、78歳で死去した。
(今回で「田中隆吉陸軍少将」は終わりです。次回からは「南雲忠一中将」が始ります)
先刻ご承知と思いますが、軍閥暗闘史には自己弁護と、
史実の捻じ曲げが多いとされます。
保坂正康氏の、「陸軍省軍務局と日米開戦」など、
武藤は和平のため、懸命に動き、東條、と対立
東條が英雄になったうんぬんも、田中の発言とされます。