陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

53.田中隆吉陸軍少将(3) 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた

2007年03月23日 | 田中隆吉陸軍少将
 田中少佐は美貌の川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したが、それは関東軍の意向でもあった。

 田中と交流のあった遠藤三郎も田中少佐と川島の熱々ぶりを、上海を訪れた時、中国の官邸で、実際に目の前で見せられている。

 東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子(川島浪速の養女)は戦後1948年3月25日にスパイ罪で中国政府により北京で銃殺刑により処刑された。 

 田中隆吉は戦後も川島芳子のことをよく語ったという。

 また、田中は論理的弁論に秀でていたことと、その独特の毒舌は部内では有名であった。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和5年10月1日の「桜会」の第一回会合に田中少佐も参加している。

 田中少佐はその夜上海に向けて出発し、以後「桜会」とは関わらなかった。

昭和7年6月、「桜会」の中心人物、長勇少佐が田中少佐のいる上海に現れた。

 田中少佐は三月事件の失敗を聞き「桜会」に関係する事を一切断った。

田中少佐は長少佐に対し「クーデター断行の後、それに参加した面々が政権を握る事は国体に反する。実行者は死を以って、上天皇および下国民に謝さなければならぬ」と主張した。

 だが長少佐は「再建の責任はクーデターの実行者にあり」と主張したのであった。

 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた。

 「東京裁判と太平洋戦争」(講談社)によると、東京裁判で満州事変関係の審議で検察側証人として法廷に立った田中隆吉陸軍少将の証言は被告はもちろん、傍聴人や記者を驚かせたものであった。

 田中少将は張作霖爆破事件や満州事変を日本側の謀略であったと証言したからであった。

 張作霖爆死事件は「当時の関東軍高級参謀、河本大作大佐の計画によって決行されたのであります」と証言した。

 満州事変については「参謀本部内で最も熱心に主張されたのは建川美次陸軍少将、当時の第二部長でありました。民間においては大川周明博士を中心とする団体でありました」と述べている。

 そしてサケット検察官の「関東軍におけるこの政策の指導者はだれでありますか」との問いに田中は次のように答えている。

 「関東軍参謀の板垣征四郎大佐ならびに次級参謀、石原莞爾中佐が中心であったと記憶しております」と。

 田中は昭和21年7月5日から9日まで、満州事変関係の証人として東京裁判の法廷に出廷している。

 その際、張作霖爆死事件、十月事件、満州事変、三月事件、満州国の成立と運営に、橋本欣五郎、梅津美治郎、土肥原賢二、板垣征四郎が深く関わっていたと証言した。

 さらに田中は昭和22年1月3日の「B級犯罪と被告の責任」の審理のときにも出廷し、捕虜取り扱いの責任について次のように証言している。

 「責任は陸軍大臣にありますが、(収容所)位置の決定ならびに建設は軍務局軍事課の掌握するところであります」と。