陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

704.野村吉三郎海軍大将(4)要職に就いた野村吉三郎は身長一七八センチ、体重九〇キロで、当時としては巨漢だった

2019年09月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、野村吉三郎は、明治十年(一八七七年)十二月十六日、和歌山城近くの、和歌山県和歌山市西釘貫町の益田喜三郎の三男として生まれた。

 父の益田喜三郎は、旧紀州藩士で、明治維新までは、大御番という戦闘部隊の小隊長に相当する武士で、二十五石をいただいていた。

 だが、明治維新後は、ご多分にもれず、生活が困窮した。益田喜三郎は時代の変化についていけず、半ば、虚脱状態だった。

 ところが、母の旦都(そと)は儒学者の家の出身で、学問があり、子供達の教育にも厳しかった。益田吉三郎(後に養子となり野村吉三郎)が、日本の運命を担う海軍大将、外交官、政治家に成長したのは、この母、旦都の薫陶の賜物と言われている。

 益田吉三郎は、他の兄と共に漢学の塾に通わされた。だが、他の組が論語などの素読をしているのに、吉三郎は、庭に出て、仲間と木刀を振り回し、大騒ぎをしていた。

 このような益田吉三郎に対して、耳の遠い老いた先生は、馬耳東風で叱ることはしなかったという。だが、後に野村吉三郎は後に、「この塾で学んだことは、後に大いに役に立った」と回想している。

 後に“和歌山の大西郷”と呼ばれるほどの人材になり、海軍軍人、政治家として要職に就いた野村吉三郎は身長一七八センチ、体重九〇キロで、当時としては巨漢だった。

 子供の教育に熱心であった、母の旦都であったが、長男・網之助は、頭は良かったが、和歌山市立始成尋常小学校卒業後、建具屋に見習いに出された。

 頭の良かった網之助は、試験を受けて、警察に入り、警備係の任務に就いていた。警察の中でも好人物で知られていたが、大酒豪で、大正三年に丹毒で病死した。

 次男・亀次郎も、高等小学校卒業後、上京して日本橋の書店に奉公していたが、世に出ず、早世した。

 妹のせいは、吉三郎より十歳年少だったが、その後、陸軍少佐・保田芳雄に嫁いだ。

 だが、和歌山市立始成尋常小学校、和歌山高等小学校でも常に首席を争った三男・吉三郎だけは、上級の教育を受けさせたいと思った旦都は、吉三郎を和歌山中学校に入学させた。

 明治二十九年二月、益田吉三郎は海軍兵学校(二六期)に首席で入学した。この年、益田吉三郎は、叔母の嫁ぎ先の野村正胤の養子となり、野村吉三郎となった。

 当時、海軍兵学校は四年制で、一年生は「四号生徒」、二年生は「三号生徒」、三年生は「二号生徒」、四年生は「一号生徒」と呼ばれていた。

 “一号生徒は鬼より怖い”と言われ、新入りの四号生徒は一号生徒に殴られ、しごかれた。日清戦争直後の鼻息荒い海軍兵学校に入校した野村吉三郎達の二六期生は、この一号生徒(二三期生)から鍛えられた。

 明治二十九年に野村吉三郎が兵学校に入校した当時の、日本帝国を取り巻く国際情勢は次のようなものであった。

 明治二十七年八月一日、日本は清国に宣戦布告。九月十七日、日本海軍は黄海の海戦で清国の北洋艦隊を破り、北洋艦隊は旅順に逃げ、さらに威海衛軍港に閉じこもった。

 日本艦隊はこれを封鎖、水雷艇隊の夜襲などで、敵の旗艦「定遠」を擱座せしめ、他の軍艦にも大損害を与えた。

 明治二十八年二月十二日、北洋艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督は自決、北洋艦隊は降伏し、日本の勝利が確定した。

 世界各国は、“眠れる獅子”と恐れられた清国を破った、小さな島国、日本帝国の軍事力と、その闘志に注目するようになった。

 明治二十八年四月十七日、日清講和会議が開かれ、講和条約が調印され、日本は清国から遼東半島、台湾等を割譲されることになった。

 日本国内では、戦勝のちょうちん行列、凱旋将軍、提督を迎える万歳の声、帝都は勝利の感激に沸き返っており、国を挙げて喜びに浸っていた。