陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

678.梅津美治郎陸軍大将(18)政治工作として宇垣でない場合は林だという元老の空気は知る由もなかった

2019年03月22日 | 梅津美治郎陸軍大将
 片倉衷(かたくら・ただし)元陸軍少将(岩手・陸士三一・陸大四〇・関東軍第四課長・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・歩兵学校研究主事・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・ビルマ方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・大〇二師団長・終戦・大平商事会長・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー会長・国際善隣協会理事長・平成三年死去・享年九十三歳)は林内閣の成立までの経緯について次の様に述べている。

 当時、参謀本部第一部長心得・石原大佐の側近であった浅原健三(あさはら・けんぞう・福岡・八幡製鉄所の大労働争議を指導し逮捕・日本大学専門部法科夜学・第十七回衆議院議員で当選・第十八回衆議院選挙で落選・林銑十郎陸軍大臣の使者・石原莞爾の政務秘書・協和会東京事務所嘱託・治安維持法容疑で逮捕・国外追放・上海で巨万の富を成す・東條英機暗殺未遂事件への関与で逮捕・那須の山奥に蟄居・戦後は政財界の蔭の実力者・昭和四十二年死去・享年七十歳)は、林銑十郎大将の信任を得ていた。

 昭和十二年一月末、宇垣内閣の成立が困難になった頃、参謀本部第一部長心得・石原大佐と脈絡を保持しつつあった浅原健三氏を中心とする重臣工作が行われた。

 工作は、特に西園寺公望公爵周辺に続けられ、宇垣拝辞の際は、林銑十郎大将へという動きが隠密裏に行われた。

 当時の軍務局軍務課長・石本寅三(いしもと・とらぞう)大佐(兵庫・陸士二三・陸大三四首席・騎兵集団参謀・騎兵大佐・関東軍作戦課長・軍事調査部調査班長・軍務局軍務課長・騎兵第二五連隊長・駐蒙兵団参謀長・駐蒙軍参謀長・少将・馬政局次長・兵務局長・中将・第五五師団長・昭和十六年三月死去・享年五十二歳・功三級)は陸軍の対策立案担当課員として、次の二人を内定して準備を整えた。

 近衛、平沼内閣の場合には、軍務局軍務課国内班長・佐藤賢了(さとう・けんりょう)少佐(石川・陸士二九・陸大三七・軍務局軍務課国内班長・航空兵大佐・陸軍省新聞班長兼大本営報道部長・浜松飛行学校教官・第二一軍参謀副長・南支那方面軍参謀副長・軍務局軍務課長・少将・軍務局長・支那派遣軍総参謀副長・中将・第三七師団長・終戦・A級戦犯・東急管財社長・昭和五十年死去・享年八十歳)。

 林内閣の場合には、私(片倉衷少佐=軍務局軍務課課員)。

 私は浅原健三氏を軍務局長・磯谷廉介(いそや・れんすけ)中将(兵庫・陸士一六・陸大二七・臨時第六師団司令部附・歩兵大佐・歩兵第七連隊長・第一師団参謀長・人事局補任課長・欧州出張・少将・在中華民国公使館附武官・在中華民国大使館附武官・軍務局長・中将・第一〇師団長・関東軍参謀長・予備役・香港占領地総督・終戦・戦犯・昭和四十二年死去・享年八十歳)に紹介した。

 こうした軍務局内の対策は陸軍次官・梅津美治郎中将は知らなかった模様であった。

 当時の陸軍省官制によると、陸軍次官は陸軍省全般事務の統制をするが、軍務局長は局務については直接大臣を補佐する権限を有し、必ずしも次官を経て補佐するのではなかったのである。

 従って隠密裏の政治工作として宇垣でない場合は林だという元老の空気は知る由もなかったようであった。

 しかし、石原を中心とする浅原、宮崎、私らの動きについては、あらかじめ軍務局長・磯谷廉介中将には意を通じてあったのであるが、次官、局長との連絡の不備もあったのではないか。

 昭和十二年一月二十九日夜、林銑十郎大将に大命が降下するや、浅原健三氏の下に十河、宮崎、片倉相会し協議し、林銑十郎大将からは十河信二氏の来訪を求められた。

 十河信二組閣参謀長を中心とする組閣工作が進められ、軍務課も協力態勢に入った。

 一月三十日から本格的組閣に入った。朝から組閣本部である千駄ヶ谷の横山氏邸に陸軍次官・梅津美治郎中将も入り、首相・林銑十郎大将に部内情報を報告し懇談した。

 首相・林銑十郎大将と陸軍大臣・寺内寿一大将との間に折衝が始まった。

 陸軍大臣・寺内寿一大将は三長官会議の決定として陸軍大臣に教育総監部本部長・中村孝太郎(なかむら・こうたろう)中将(石川・陸士一三・陸大二一・在スウェーデン公使館附武官・参謀本部庶務課高級課員・歩兵大佐・歩兵第六七連隊長・陸軍省高級副官・少将・歩兵第三九旅団長・朝鮮軍参謀長・陸軍省人事局長・支那駐屯軍司令官・中将・第八師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・東部防衛司令官・大将・朝鮮軍司令官・東部軍司令官・予備役・軍事保護院総裁・終戦・昭和二十二年死去・享年六十六歳・正四位)を推した。