陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

417.板倉光馬海軍少佐(17)それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた

2014年03月20日 | 板倉光馬海軍少佐
 十三センチ砲四門を装備する駆逐艦「如月」は、海洋でこそ“トンボ釣り”であったが、揚子江では戦艦級であった。これ以後、堀江部隊が襲われることは一度もなかった。

 上海に入港して、板倉中尉が第三艦隊の旗艦「出雲」を訪れたとき、戦務参謀から、「揚子江で座礁すると、増水期まで離礁できないから、くれぐれも注意されたい」とおどかされた。

 港務室に行くと、「揚子江の水路は時々刻々変化するので、海図は役に立ちませんよ。肝心なことは座礁したときの準備をしておくことです。それと、パイロットを雇うことです」と言われた。

 早速、板倉中尉はパイロット協会に出向いたところ、運良く、一人だけ残っていた。ブルー・ファンネル社の船長をしていたという五十年輩で赤ら顔の男が、パイプをくゆらせながら英字新聞を見ていた。

 キザなやつ……一見してピーンときた。案の定、鼻持ちならぬほど横柄で気取っていた。やれ個室が要るとか、ブリッジに肘掛け椅子を用意せよ、食事は三度とも洋食、というありさまで、出来ない相談ばかり持ちかけられ、とうとう喧嘩別れになってしまった。

 艦の保安を思うと、短慮がくやまれたが、いまさらどうしようもなかった。板倉中尉は艦に帰って、ありのままを小倉艦長に報告した。「艦橋で喧嘩ばかりされてはかなわん。気をつけてゆけば、そのうち慣れるだろう」と、小倉艦長からは、小言も言われず、むしろなぐさめられた。

 小倉少佐の父は、浄土真宗の住職ということであるが、駆逐艦長にしては珍しくおっとりした人柄で、さすがの板倉中尉も、在職中、小倉艦長に叱られたことは、一度もなかった。その翌日、南京に急行することになり、出港した。二戦速に増速してから、板倉中尉は操艦をまかされた。

 揚子江の河口は大海原と変わりない。無限に広がる黄褐色の流れに、しばし、気をとられていたとき、急に艦首波が消えた。ハッとして後方を見ると、艦尾波が小山のように盛り上がっていた。座礁したのだ。「両舷停止、両舷後舵一杯!」。板倉中尉は指示を出したが、びくともしなかった。

 「右停止、右前進強速、取り舵一杯!」。だが、依然として艦は動かなかった。なにしろ二十四ノットで突っ込んだのだ。相当深く食い込んだにちがいなかった。

 このままでは濁流に押し倒される恐れがあった。だが、しばらくすると、ジワリ、ジワリと艦首を左に振り始めた。板倉中尉はほっと胸をなぜおろした。船体には異状がなかった。

 先ほどから、艦橋でこの状況を見ていた先任将校が、自慢の髯をなでながら、「これで、艦底のカキが落ちたでしょうなあ……。当分、入渠せんでもよかですたい」と言った。

 小倉艦長も相槌をうつかのように、「うむ、速力も出るだろう。航海長、一戦速に落とせ。そう急ぐこともあるまい」と言った。

 板倉中尉は思わず目頭が熱くなった。なにげないやりとりではあるが、新前の航海長をいたわる温かい心くばりが、痛いほど感じられた。揚子江は長江の名にふさわしく、中国随一の大動脈だ。通州を過ぎたころから、河幅がいくぶん狭くなり、水路がゆるやかなカーブを画くようになった。

 そのとき、上流から真っ白に塗装した砲艦が近づいてきた。ユニオンジャックの艦旗をひるがえしていた。イギリス海軍だった。マストに「速力を微速にされたい」という国際信号旗を掲げていた。途端に、板倉中尉はムラムラと闘志がわいてきた。

 満州事変以来、居留民保護と既得権益の擁護を口実にして、ことごとにわが軍の作戦を妨害する実情は目に余るものがあった。

 いずれ日本と戦火を交える時が来るであろうことは想像に難くない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。速力標を微速にしたまま、一戦速、二十ノットで接近した。

 艦尾波が小山のようなウネリとなって砲艦を襲った。河川の砲艦は乾舷が低く、吃水が浅いため横波に弱い。河幅は広いが水路は狭い。まして出会いがしらである。

 避けるいとまもなく、右舷に打ち寄せた濁流が、甲板を洗って反対舷に越え、その一部が艦橋を襲って、砲艦は危うく転覆しそうになった。

 それでも砲艦はサイドパイプを吹き、艦長は挙手の礼をしていた。さすがはイギリス海軍である。いかなる場合でも、国際儀礼に忠実で折り目正しい。板倉中尉は、いささか、大人気ない振る舞いが恥ずかしかった。