陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

185.東條英機陸軍大将(5) 石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?

2009年10月09日 | 東條英機陸軍大将
 毛呂清輝は突然召集令状を受け、二等兵として京都の第十六師団に入隊させられた。当時、毛呂は三十歳だったが、二等兵として班長ら上官から、徹底的にしごかれる運命にあった。

 だが、毛呂は、あることを思いついた。それは石原莞爾が京都師団の前師団長ということだった。毛呂は石原と会ったことがあった。当時、石原は東條により予備役にされていた。

 毛呂は、その石原に度々手紙を出した。石原は手紙を読んで、毛呂が召集されたと聞いて驚いたが、すばやく毛呂の意のあるところを察して、月に三、四回のわりで、毛呂をまるで友人扱いにした毛筆の手紙を毛呂に出した。

 すでに現役をひいたとはいえ、前師団長でもあり、高名な石原莞爾中将から、営内の二等兵にさかんに手紙が来る。驚いたのは中隊長をはじめ隊の幹部だった。

 不思議に思った中隊長は班長を呼んで調べさせた。班長は毛呂を呼んで「毛呂、お前は石原閣下とどういう関係か」「はい、石原閣下は、私の友人であります」。

 班長はもう一度聞きなおした。「石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?」

 班長は、すっかり仰天してしまった。以来、班長や幹部の毛呂に対する態度は一変した。二等兵などは目にしたこともない、ご馳走を山盛り、班長が食べさせてくれた。

 石原中将は、東條とは、最後まで喧嘩したが、兵隊はいつも可愛がっていた。その石原からの手紙は、絶大な威力を発揮したのである。

 昭和十七年二月十五日、山下奉文陸軍中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は第二十五軍司令官としてマレー作戦を指揮し、シンガポールを陥落させた。

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、その戦勝の功績がある輝く猛将、山下中将は昭和十七年七月一日付で北満州の第一方面軍司令官に飛ばされた。

 山下中将は、南方から北満に赴任する途中、当然、東京に立ち寄り、天皇に対してシンガポール攻略の報告をしたかった。そのため、御進講の用意までしていた。

 だが、東條首相はそれも許さず、任地への直行を命令した。山下は南方軍総司令官・寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)と、中央へも交渉したが、すでに決定した方針を盾にして中央はそれを拒否した。

 山下中将は、再びフィリピンの第十四軍司令官に任命される昭和十九年九月二十六日まで、一歩も内地に足を踏み入れることを許されなかった。

 昭和天皇が山下中将の拝謁を好まなかった(二・二六事件に関与したため)とされているが、東條首相の指示であったとも言われている。

 以前、シンガポールから山下中将は東京の親しい友人に手紙を書いた。その文中に少し東條批判を書いていた。それは些細なものだった。

 だが、この手紙が、どういうわけか、東條首相の手に渡っていた。東條はこのことから山下中将にますます不快感を抱くようになった。東條の狭量さがそうさせた。

 もともと東條は山下に脅威を感じていた。陸士も陸大も東條の一期後輩だが、山下は青年将校に人気があり、さらに多数の幕僚からも支持を受けており、将来は陸軍大臣の椅子に座っても当然の人物だった。

 だが、「山下は自分になびく男ではない」と東條は思っていた。山下は対米戦争反対論者だった。性格的にも山下中将は細事にとらわれない、豪放な男で、東條とは相容れないものがあった。山下は東條の出世上のライバルであった。

 そこで、昭和十五年七月二十二日に東條が第二次近衛内閣の陸軍大臣に就任すると、中央の航空総監であった山下中将をその年の十二月に、ドイツ派遣航空視察団長としてヨーロッパに追い出した。

 山下がヨーロッパに行っている間に、東條は全陸軍に手を伸ばし、掌握して地盤を固めた。

 さらに、山下中将が、ドイツから帰国すると、またもや、東條は山下中将を、マレー方面最高指揮官の任につかせ、開戦と同時に難攻不落といわれた、困難なシンガポール要塞攻略作戦を担当させた。

 だが、マレー作戦は大成功で、シンガポールも短期間で陥落した。こうなると山下中将の名前は、世界にとどろき、日本では三歳の童子も山下を知るに至った。

 こうして山下中将の人気は熱狂的なものになった。するとたちまち台頭したのが「山下内閣」の構想である。前線にも、東京にも、この噂は広がった。

 東條首相は、このような山下中将を極度に恐れていた。だから、東京に帰しては危ういと見て、北満に追いやったのである。山下中将はこのときつぶやいたという。「物取り強盗ではあるまいし、おれを昼間歩かしてはくれぬ」


1 コメント

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毛呂先生 (アダン)
2016-05-05 20:35:17
 岩国在住で還暦を数年過ぎました。
毛呂先生のエピソードを読ませていただき、先生のことを懐かしく思いださせていただきました。
先生とは40数年前の学生時代、京都に帰省される都度教導を受けました。
 当時、新勢力という機関紙を発行されておられ愛読していました。ました。
今、私の手元には、三島由紀夫さんから毛呂先生に贈呈された「英霊の聲」初版本のサイン本があります。
隣市に貴殿のような戦史に詳しい方がおられ敬服いたしております。
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