艦隊派は加藤寛治大将(海兵十八期)、末次信正大将(海兵二十七期)を中心として艦隊決戦を考えている派で、大西大佐の戦艦無用論の反対の派であった。その二人の大将が担ぎ上げておられるのが、軍令部総長の宮殿下であった。
その後昭和13年4月、吉岡大尉は台湾嘉義の陸軍練兵場で爆弾投下の研究をやっていた。大西大佐がわざわざその研究を見に来た。
そのとき大西大佐は「僕はね、海軍をやめることは、何とも無かった。しかし、君たちを辞めさすことは絶対にやってはならぬと思ったから、何も言わなかった。私の考えは今も全く変わっていないよ」
「私の具申は通らなかった。そして叱られたよ。注意を受けたよ。大和は呉、武蔵は長崎で絶対秘密として建造しているよ」と言った。
「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)の「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」によると、昭和16年9月29日、第一航空艦隊と第十一航空艦隊両司令部の、ハワイ奇襲攻撃実施の可否についての合同会議が鹿屋航空隊で開催された。
第一航空艦隊は司令長官が南雲忠一中将(海兵三十六期)、参謀長が草鹿龍之介少将(海兵四十一期)、第十一航空艦隊は陸上航空部隊群で、司令長官が塚原二四三中将(海兵三十六期)、参謀長が大西瀧治郎少将(海兵四十期)であった。
この会議ではハワイ奇襲攻撃に幕僚全員が反対であった。大西参謀長は山本五十六連合艦隊司令長官が最初にハワイ奇襲について密かに相談した人物である。
だが、その会議で大西参謀長が発言した。全員固唾を呑んで聞いた。
大西参謀長は「わしはねえ」と関西弁丸出しで話を始めた。「米国との戦争でハドソン川で日本海軍が観艦式はできないから、どうしても途中で講和を結ぶことを考えなくてはならない」。これは日本は負けるということであった。
「講和を結ぼうとするとき、日本が米本土にも等しいハワイ奇襲攻撃をやると、米国の世論が硬化して絶対に和を結ぶことを聞いてくれない。だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない」
この会議で、両司令長官もハワイ奇襲攻撃に反対した。10月2日、両参謀長と源田実、吉岡少佐の四人は両司令長官の反対の意を持って、柱島停泊中の長門に行って山本五十六長官に進言した。
山本長官は固い決意で言った。「君らがやらないのなら、わしが行く」と。
「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和11年の2.26事件のとき、大西海軍大佐は横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあった。
大西大佐は部下が青年将校に同調の色を見せる者があると、殴り飛ばして訓戒を与えた。
後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田大尉は大西大佐が日頃目をかけていた飛行機乗りだった。
その後昭和13年4月、吉岡大尉は台湾嘉義の陸軍練兵場で爆弾投下の研究をやっていた。大西大佐がわざわざその研究を見に来た。
そのとき大西大佐は「僕はね、海軍をやめることは、何とも無かった。しかし、君たちを辞めさすことは絶対にやってはならぬと思ったから、何も言わなかった。私の考えは今も全く変わっていないよ」
「私の具申は通らなかった。そして叱られたよ。注意を受けたよ。大和は呉、武蔵は長崎で絶対秘密として建造しているよ」と言った。
「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)の「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」によると、昭和16年9月29日、第一航空艦隊と第十一航空艦隊両司令部の、ハワイ奇襲攻撃実施の可否についての合同会議が鹿屋航空隊で開催された。
第一航空艦隊は司令長官が南雲忠一中将(海兵三十六期)、参謀長が草鹿龍之介少将(海兵四十一期)、第十一航空艦隊は陸上航空部隊群で、司令長官が塚原二四三中将(海兵三十六期)、参謀長が大西瀧治郎少将(海兵四十期)であった。
この会議ではハワイ奇襲攻撃に幕僚全員が反対であった。大西参謀長は山本五十六連合艦隊司令長官が最初にハワイ奇襲について密かに相談した人物である。
だが、その会議で大西参謀長が発言した。全員固唾を呑んで聞いた。
大西参謀長は「わしはねえ」と関西弁丸出しで話を始めた。「米国との戦争でハドソン川で日本海軍が観艦式はできないから、どうしても途中で講和を結ぶことを考えなくてはならない」。これは日本は負けるということであった。
「講和を結ぼうとするとき、日本が米本土にも等しいハワイ奇襲攻撃をやると、米国の世論が硬化して絶対に和を結ぶことを聞いてくれない。だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない」
この会議で、両司令長官もハワイ奇襲攻撃に反対した。10月2日、両参謀長と源田実、吉岡少佐の四人は両司令長官の反対の意を持って、柱島停泊中の長門に行って山本五十六長官に進言した。
山本長官は固い決意で言った。「君らがやらないのなら、わしが行く」と。
「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和11年の2.26事件のとき、大西海軍大佐は横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあった。
大西大佐は部下が青年将校に同調の色を見せる者があると、殴り飛ばして訓戒を与えた。
後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田大尉は大西大佐が日頃目をかけていた飛行機乗りだった。