陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

719.野村吉三郎海軍大将(19)佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう

2020年01月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正三年十二月、野村吉三郎中佐は、在アメリカ国大使館附武官に補任された。三十七歳だった。

 当時の世界情勢は、大正三年六月二十八日にサラエボ事件が起きた。オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺されたのだ。

 このサラエボ事件がきっかけで、ロシア、イギリス、フランスと、ドイツ、オーストリア、トルコの間で大きな戦争が勃発した。

 これが第一次世界大戦である。第一次世界大戦は、一九一四年(大正三年)七月二十八日から一九一八年(大正七年)十一月十一日まで、四年以上続いた大戦争だった。

 野村吉三郎中佐がワシントンに着いた大正四年二月十日、アメリカは大騒ぎであった。イギリスは盛んにアメリカの参戦を希望してきていた。

 当時のアメリカ大統領は、ウッドロウ・ウィルソン大統領(バージニア州・プリンストン大学卒・ニュージャージー州知事・第二八代アメリカ合衆国大統領<民主党>・ノーベル平和賞受賞・アメリカ歴史協会会長・一九二四年(大正十三年)二月三日死去・享年六十七歳)だった。

 第一次世界大戦中でも、デモクラシーの国アメリカでは、ウィルソン大統領が慎重で、議会の承認なしでは参加できないとしていた。

 こうした世界情勢の中で、国の方針に悩むアメリカに、野村吉三郎中佐は、赴任したのである。だが、野村吉三郎中佐は、待っていた大使の顔を見てほっとした。

 大使は、ドイツ大使館でお馴染みだった、有能な外交官、珍田捨巳(ちんだ・すてみ)大使(青森・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省入省・イギリス・オランダ等で書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ領事・外務総務長官・初代外務次官・男爵・子爵・在アメリカ合衆国特命全権大使・パリ講和会議全権委員・枢密顧問官・皇太子祐仁親王訪欧供奉長・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・イギリス帝国ブリディッシュエンパイア勲章グランクロワ・ローマ法王ピーヌーフ勲章グランクロワ等)だった。

 野村吉三郎中佐の米国駐在三ヶ年半の間に、大使は三代に亘った。

 珍田捨巳大使の後任が、佐藤愛麿(さとう・あいまろ)大使(青森・キリスト教の洗礼を受ける・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・美会神学校教授・外務省入省・在メキシコ特命全権公使・ポーツマス日露講和会議全権随員・在オランダ兼デンマーク特命全権公使・在オーストリア特命全権大使・兼在スイス公使・在アメリカ合衆国特命全権大使・宮内省入省・宮家別当・宮中顧問官・昭和九年一月十二日死去・享年七十六歳・正三位・勲二等旭日重光章・ロシア帝国星章付神聖スタニスラス第二等勲章等)だった。

 佐藤愛麿大使の後任が、石井菊次郎(いしい・きくじろう)大使(千葉・東京帝国大学法科大学法律学科卒・外務省入省・パリ公使館・仁川領事・清国公使館・電信課長・兼人事課長兼取調課長・通商局長・外務次官・在フランス特命全権大使・外務大臣・貴族院勅選議員・在アメリカ合衆国特命全権大使・在フランス特命全権大使・国際連盟日本代表・ジェノア会議全権委員・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権委員・枢密顧問官・昭和二十年五月二十五日東京山手空襲で死去・享年七十五歳・子爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国アレキサンドルネウスキー勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 佐藤愛麿大使時代の陸軍駐在武官は、水町竹三(みずまち・たけぞう)中佐(佐賀・陸士一〇期・陸大二二期・インド駐箚武官・陸軍大学校教官・在アメリカ大使館附武官・教育総監部附・大佐・近衛歩兵第三連隊長・第一二師団参謀長・少将・歩兵第五旅団長・独立守備隊司令官・予備役・満州国中央陸軍訓練処監事(満州国軍中将)・昭和三十五年一月九日死去・享年八十五歳・正四位)だった。

 大正七年初頭、佐藤愛麿大使時代に、ある事件が起きた。陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐(大正六年四月進級)に「佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。

 当時、水町竹三中佐は四十二歳、野村吉三郎大佐は四十歳で、同じ十二月生まれで、二歳違いの同世代だった。二人の軍歴を比較してみる。

 水町竹三中佐は、明治八年十二月十一日、生まれ。明治三十一年十一月、陸軍士官学校(一〇期)を卒業(二十二歳)、明治四十三年十一月、陸軍大学校(二二期)を卒業(三十四歳)。明治四十四年十二月、少佐(三十五歳)。大正五年、歩兵中佐(四十歳)、大正九年二月、歩兵大佐(四十四歳)。