陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

430.乃木希典陸軍大将(10)児玉少佐は「ばか、死なせてたまるか、うろたえ者」と叫んだ

2014年06月20日 | 乃木希典陸軍大将
 官軍は三月二十日田原坂に進撃し、四月一日吉次峠を占領した。乃木連隊長は木留総攻撃を決行したが、四月九日左の腕に貫通銃創を受け、再び野戦病院に収容された。

 とうとう乃木連隊長は軍旗を取り戻すことはできなかった。乃木連隊長は熊本鎮台司令長官・谷干城(たに・たてき/かんじょう)少将(土佐藩=高知・戊辰戦争・会津戦線で大軍監・土佐藩参政・陸軍大佐・陸軍裁判長・少将・熊本鎮台司令長官・中将・東部監軍部長・陸軍士官学校長・学習院長・農商務大臣・貴族院議員・勲一等旭日桐花大綬章・正二位・子爵)を通じて、参軍・山縣有朋中将に軍旗喪失の待罪書を差し出して、処罰を請うた。

 山県有朋中将は乃木少佐を愛すべき後輩として引き立ててきた。それだけに軍旗喪失をした乃木少佐に対して怒りも強かった。

 討伐総督・有栖川宮熾仁親王の本営で、山縣中将は乃木少佐に対して同情すべき点はあったが、軍紀を正すためやむを得ず、極刑を主張した。

 これに対して乃木連隊を指揮していた第一旅団長・野津鎮雄(のづ・しずお)少将(薩摩藩=鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・藩兵四番大隊長・御親兵・陸軍大佐・少将・陸軍省第四局長・熊本鎮台司令長官・東京鎮台司令長官・西南戦争に第一旅団司令長官として出征・中将・中部軍監部長・正三位・勲二等)は次のように意見を述べた(要旨)。

 「乃木の優先奮闘があったからこそ、薩軍の北上を阻止できた。官軍の九州上陸とその後の前進を支障なからしめたのも乃木の奮戦のためだ。軍旗喪失の罪は確かに重いが、激戦の最中、しかも夜中だったので事情やむを得ない。今日これを罰するよりも、その罪を許して、後日の彼の奮励を待つのが国家の為である」。

 山縣中将は、野津少将の意見を受け入れて、結局、乃木少佐は許されることになった。山縣中将は自分が厳しい極刑を主張したら、誰か他の者が反対に乃木少佐を擁護してくれることを見越していたとも言われている。

 罰せられるどころか、乃木少佐は戦功により、四月に中佐に昇進し、熊本鎮台参謀長に栄進し、司令長官・谷干城少将を補佐することになった。乃木の自殺的突撃を避けるために戦場から離脱させた人事だった。

 だが、罪を許されたことで、乃木中佐の苦悶はかえって深まった。乃木中佐は自分自身を許すことはできなかったので、死のうと考えた。

 できれば戦場で死にたかったが、それもできなくなった。軍旗を失ったことは、なにをもってしても償えない。乃木中佐は自分を激しく責め続け、遂に自刃してその罪を謝そうと決意した。

 谷干城司令長官は、乃木中佐が自決すると見て取った。そこで参謀・児玉源太郎少佐をそっと呼んで、乃木中佐を見張らせた。児玉少佐は自分の部屋を乃木中佐の隣に移して気を配っていた。

 ある晩のこと、乃木中佐の気配がおかしかったので、扉を細めに開けて覗くと、今まさに乃木中佐が軍刀を逆手にして腹を切ろうとしているところだった。児玉少佐は「待った!」と大声をあげて、飛び込んでいった。

 乃木中佐は「離せ。武士の情けだ、見逃してくれ」と、ふりほどこうとした。

 児玉少佐は「ばか、死なせてたまるか、うろたえ者」と叫んだ。うろたえ者という言葉は、武士にとってはなばなしい侮辱である。

 乃木中佐は「うろたえ者とはなにごとぞ」と言った。そこで児玉少佐は怒鳴りつけるようにして、次のように言った。

 「貴様、死んだからといって、それで責任が果たせると思うのか、卑怯だぞ。死ぬことくらい楽なことはない。なぜ貴様は一生かかって、その責任を果たそうとしないのだ。なぜ一生かかって死んだつもりでお詫びをしないのか。死んで早く楽になりたいのか」。

 これを聞いた乃木中佐の腕から力がスーと抜けた。そこで児玉少佐は乃木中佐の前に座り、諄々(じゅんじゅん)と説得にかかった。

 だが、翌朝になると、乃木中佐の姿が消えていた。谷司令長官は徹底的に乃木中佐を探すことを厳命した。三日後、熊本山王山の山頂で絶食して死を待っている乃木中佐が発見された。

 谷司令長官は憔悴した乃木中佐を呼びつけて、自決を思いとどまることを命令として誓わせた。そこまで言われた乃木中佐は命令に従った。だが、それは永遠にではなかった。