陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

356.辻政信陸軍大佐(16)オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ…

2013年01月18日 | 辻政信陸軍大佐
 こうした人事のいたずらで、全軍でも珍しい大作戦主任参謀が出現した。辻作戦主任参謀は、指揮下の師団参謀長よりも、方面軍の課長参謀よりも先任であった。
 
 第三三軍の従来の作戦主任参謀・安倍光男少佐(陸士四四・陸大五五・中佐)は、作戦補助参謀に格下げになった。

 この変則状態は、白崎大佐が第一八師団参謀長に転出して、辻大佐がその跡を襲うまで続いた(白崎大佐の転出は昭和十九年九月一日)。

 本多軍司令官は、辻大佐の着任について戦後、次のように回想している。

 「辻大佐は昭和十五年、私が支那総軍参謀副長のとき、南京ではじめて職務上の関係がつながったわけで、その性格、技能については、約一ヵ年の交渉でほぼ承知していた」

 「その作戦技能と大胆、何物をも怖れない点においては、まさに天下の逸物と称するも過言でなく、同大佐の補職を知って、百万の増援を得た感じを持ち、充分にその敏腕を発揮させる。ただその性格上、参謀長との間を巧みにとりもつことが肝要だと思った」

 「率直に言って、同大佐が不在間は不安を隠せなかった。その後、作戦間、上級司令部の方面軍参謀も辻大佐には歯が立たず、たいがいのことは、軍の言い分が好意的に採用された」。

 辻大佐の補任について、軍司令官以上に頭を悩ましたのは、参謀長・山本清衛少将(やまもと・きよえ・高知県・陸士二八・陸大四〇・大佐・参謀本部鉄道課長・第三師団参謀長・少将・第五特設鉄道司令官・第三三軍参謀長・中将・第一五師団長)であった。

 山本参謀長は、豪放磊落、竹を割ったような男らしい性格であった。山本参謀長は殺伐な戦場の将兵の心をいやし、少しでも家庭的雰囲気を味わわせるために、戦場にも女性が必要だと考えていた。

 そのため、軍でも「黎明荘」という料亭を開設したばかりであったが、辻大佐によってこわされてはたまらないと思った。

 それというのも、辻大佐の潔癖で女嫌いは有名で、いかなる場合でも脂粉の席に出たことはなく、南京では料理屋征伐のため、焼き打ち事件まで起こしたとの噂が、ビルマの果てまで伝わっていたからである。

 山本参謀長は「辻の女嫌いは有名だが、困ったものだ。しかし、彼にも女房もいれば子供もいる。まんざら女を知らないというわけでもあるまい。俺も教育するが、諸君も彼の無粋のところを矯正してやってくれ」と、呵々大笑いしていた。

 また、辻大佐に向かって「オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ……」と釘を刺していた。

 辻大佐は内剛外剛で、自己にも厳しかったが、他にも厳しかった。またまれに見る悍馬(かんば)で、自己の主張を通すためには、体をはっても敢然として上官に立ち向かった。

 辻大佐が、心底から敬服し、名将だと口にし、合格点を付けられた先輩上司は数えるぐらいしかなかった。

 「マレーの虎」とうたわれた勇将・山下奉文大将についても、辻大佐は「風体だけは大物らしく見えるが、内心は小心翼々で神経が細かった」と評して厳しい点数をつけていた。

 昭和十九年七月、北ビルマの要衝、ミートキーナ守備隊は、二ヶ月近く優勢な米国・中国の連合軍の攻撃にさらされて、孤軍奮闘中であった。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、本多軍司令官は、ミートキーナ守備隊長、水上源蔵少将(みなかみ・げんぞう・山梨県出身・陸士二三・陸軍戸山学校・歩兵第六六連隊長・歩兵第一一〇連隊長・少将・留守第五四師団兵務部長・第五六歩兵団長・自決・中将)に対して、持久可能の見込みについて意見を求めた。

 水上少将から「二ヶ月以上の持久は可能ならん」との電報があって、大いに意を強くした。だが、その後、数日もたたないのに、「敵は真面目の攻撃を開始せり。陣地設備薄弱、弾薬、糧食も僅少にして持久困難なり」との入電があった。

 軍ではその態度の急変に驚いた。直ちに幕僚間で検討を行ったが、前電は水上少将独自の意見であり、後電は、他の幕僚の意見が加えられて変更されたものであろうと推定された。