陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

390.真崎甚三郎陸軍大将(10)教育総監のなり手がないなら、俺がなってやる

2013年09月12日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 だが、昨年の三月以来、陸軍の定期異動は林陸相の手で四回行われていたが、その四回とも教育総監・真崎大将から原案に修正が加えられ、林陸相の希望はほとんど容れられなかった。

 林陸相は面白くなかった。それで、今回は真崎教育総監に相談せずに断行した。そして参謀総長・閑院宮元帥に見せて内諾を得ていた。

 林陸相は、まず、真崎教育総監自身の更迭案をはずした、これら一連の将官異動案を、真崎大将に見せた。案の定、真崎大将はこの将官異動の原案に反対した。むしろ、小磯、建川を待命にすべきだと主張した。

 昭和十年七月十日、林陸相は教育総監・真崎大将を呼んで、軍事参議官に代わってもらいたい旨を話した。だが、真崎大将は同意をしなかった。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、昭和十年七月十二日午後、第一回の三長官三会議が開かれた。

 この席上、林陸相はあらためて参謀総長・閑院宮元帥の前で、真崎大将の教育総監更迭のやむを得ない事情を述べた。

 これに対し、真崎大将は憤然として次のように言って、決定の引き延ばしを主張した。

 「参謀総長に皇族を戴いているから、だいたい陸相との間にあらかじめ協議して成案を得た上で宮様のご臨席を仰ぐものである」

 「しかるに、いきなり三長官会議を開いて重大な人事を決定しようとするのは無理であるとともに、宮様に対しても恐れ多い極みである。自分としてもいろいろ準備の都合がある」。

 この日の三長官会議は、沈黙するはずであった真崎大将の論理に押されて、結論は七月十五日の第二回の会議に持ち込まれることになった。

 「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、この三長官会議の後、軍事参議官が非公式に集まり、林大臣を中心に連日懇談し、真崎大将助命運動が展開された。以下は有末精三中将の証言による。

 軍事参議官の一番の長老は菱刈隆大将(ひしかり・たかし・鹿児島・陸士五・陸大一六・歩兵第四連隊長・少将・歩兵第二三旅団長・中将・第八師団長・台湾軍司令官・大将・関東軍司令官・軍事参議官・満州国大使)だった。

 次に渡辺錠太郎大将(わたなべ・じょうたろう・愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ駐在武官・歩兵第二九旅団長・少将・参謀本部第四部長・陸軍大学校校長・中将・第七師団長・航空本部長・台湾軍司令官・大将・教育総監・二、二六事件で死去)がいた。

 その次に荒木貞夫大将(陸士九・陸大一九首席)、川島義之大将(かわしま・よしゆき・愛媛・陸士一〇・陸大二〇恩賜・少将・陸軍省人事局長・近衛歩兵第一旅団長・中将・第三師団長・教育総監部本部長・朝鮮軍司令官・大将・陸軍大臣・待命)がいた。

 これら軍事参議官達は、真崎大将について、「それはいかんじゃないか。真崎は教育総監をやっておいていいじゃないか」と言った。

 林陸相は「軍の統制上必要だ」と押した。だが、「真崎と貴様は昔から関係があり親友ではないか。その親友の間でそういうことをやるのか」という話になったという。

 それで林陸相が答弁の中で、「これは永田の強い意見だ」というようなことを言ったのかもしれない。それで、この軍事参議官の集まりで、三月事件の問題が出されて、永田軍務局長の攻撃が始まったという。

 ところが、軍事参議官の中で、林陸相と同期の渡辺錠太郎大将が別室で、「教育総監のなり手がないなら、俺がなってやる」と言って林陸相を元気付けた。

 また、関東軍司令官・南次郎大将なども陰で林陸相をけしかけていたのではないかと想像できる。つまり当時、陸軍の大将は二つに分かれていた。