陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

391.真崎甚三郎陸軍大将(11)自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか

2013年09月20日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、七月十四日、真崎大将は林陸相を訪ねて、次のように言った。

 「もしこの人事を断行すれば、総長殿下の御徳を傷つけるのみならず、至尊に累を及ばし奉るべきことをおそれる。自分はいかになるとも少しも差し支えないけれども、総監たる地位に対して考えてもらいたい」。

 これに対して、林陸相は「次官、次長、人事、軍務両局長ら自分の幕僚は、ここまで来た以上は断行のほかないという」と答え、「君も今度の問題では、いろいろ他より迫られて困るだろう」と同情するように言った。

 これを聞いた真崎大将は憤然として「自分は他人から言われてするのではない。深い信念を持っているから困ることはない」と強く言い切った。

 林陸相はたじろいで「もし総長殿下の思し召しが緩和するようなことがあれば、自分も再考しよう」と述べた。

 昭和十年七月十五日、三長官会議の始まる一時間位前、林陸相は真崎大将に会見を申し込んだ。林陸相は会議の紛糾を避けるために、次のように提案した。

 「君が総監の職を退くことを納得してくれれば、他の八月異動案は全部君の思い通りにやる」。

 これに対して、真崎大将は即座に拒否したという。林陸相の予備交渉は失敗した。

 いよいよ本番の三長官会議が始まった。参謀総長・閑院宮元帥、林陸相を前にして、真崎教育総監は第一回に引き続き、粛軍の本質を説き、その完成は三月、十月事件の適切なる処断なくしては絶対にあり得ないと論を尽くして長々と主張した。

 すると、閑院宮元帥は、満面朱を注いで、「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と真崎教育総監を叱責した。

 これに対して真崎教育総監は次のように答えた。

 「小官卑賤なりといえどもかかる淋しき思想を有せず。小官は日本人民として、皇族の長老にてあらせらるる殿下の御意に副い奉ることをえざるは実に苦しく、只今ここに身の置き所を苦しみつつあり」

 「いかでか殿下に抗争する不都合なる精神を有せんや。しかれども小官は、天皇陛下の教育総監として、教育大権輔弼の責に任ずる者なり」

 「しかるに今陸軍の本義たる大綱が絶たれんとしつつあり。小官これを同意することはできがたし。もしこれを強行せらるるときは軍は思想的に混乱し、これが統一困難なるべし。只今ここにて即決せられずとも、二、三日互いに研究する余裕を与えられたし」。

 これに対し閑院宮元帥は最後に次のように言った。

 「このままにて行けば何事か起こるやも知れざれども、その時には、これに対応する処置も大臣にあるべし。このままにて行かん」。

 真崎大将の情理を尽くした反論も、追放という既定路線をくつがえすことはできなかった。真崎大将は辞任を承諾したわけではなかったが、抵抗を中止した。こうして三長官会議は終わった。

 「英傑加藤寛治」(坂井景南・ノーベル書房)によると、戦後、著者の坂井氏が寺田武雄と共に、世田谷の真崎邸を訪ねた。

 そのとき、真崎甚三郎元大将は二人に向かって、教育総監罷免問題の三長官会議当時のことについて、次のように語った。

 「自分(真崎)は閑院宮と喧嘩をしたのがたったのだ。あのとき閑院宮に対し、『自分(真崎)も教育総監として、大元帥の幕僚長であるから、信ずるところをお上に申し上げねばなりません』と言ったところが、閑院宮は烈火のごとく怒って、『皇族の長老であり、陸軍の最先任である自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか』と言われ、ついに決裂したのだ」。

 閑院宮と仲違いしたためでもなかろうが、真崎大将は伏見元帥宮の親任の厚かった加藤寛治海軍大将にたびたび衷情を披瀝して、加藤大将を通じて伏見宮の諒解を得るとともに、宮中の信任を保ちたかったのではないかとも想像される。