辻少尉は、師団長が気をよくするようにうまく話のいとぐちを切り出した。
「まず皆に聞こう。皆は入営する前に、軍隊はよく品物が紛失するところだと聞いていただろう。入隊以来、今日まで所持品を失ったことのある者は、手をあげよ」。
兵隊は思いがけない質問にうろたえた様子で、誰も手を挙げない。辻少尉は彼らにすすめた。
「所持品を紛失した者はないのか。靴下、石鹸、剃刀、刷毛など、なんでもかまわない。師団長閣下、連隊長殿がおられても遠慮することはない。隠さないで手をあげよ」。
数人が挙手をした。
「それぐらいではないだろう。もっといるにちがいない」。
うながすうちに、小隊全員が手をあげた。辻少尉は一人ずつ、失ったものをたずねた。靴下、刷毛、襦袢、袴下、靴などさまざまの物を盗まれたと兵たちは答えた。
「よろしい。紛失の原因は一人が盗むことから始まる。軍隊では下給品を紛失すると叱られるので、一人が盗まれると他の者の品を盗む」
「盗まれた者はまた他の者の品を盗むので、隊内の者が全部同じことをしないわけにいかなくなる。これが内務班の悪習だ。今後そのようなことがあれば、ただちに班長に報告せよ。班長は叱らずに失った品を補充してやれ」。
辻少尉は軍隊生活のもっとも切実な問題を、するどく指摘した。吉冨連隊長は、師団長が気分を害しないかと顔色を失っていたが、辻少尉は平然と話を続けた。
「本日は営庭は見たとおり、きれいに片付いているが、道路際のあちこちに縄を張っているのは何のためか」。
兵隊が手をあげ、答えた。
「あれは近道をするため、芝生を横切る者が多いので、踏ませないようにしているのであります」。
「公聴心に欠けているから、そういうことをするのだ」。
辻少尉は兵舎内の清掃、衛生など十項目について、同じように質疑応答を行った後、訓話を切り上げた。
「教官がいま話したことは、さっきも言ったとおり、検閲のためではない。真剣にうけとめて、ただちに実行せよ」。
辻少尉は師団長に向かい、一場の談話を願った。
「閣下は先頃まで外国に駐在しておられたと聞き及んでおります。つきましては、外国人の公聴心についてのご教示を、この際ぜひお願いいたします」。
外国から帰ったばかりの師団長は、辻少尉に頼まれると、いい気分になって外国での見聞を披露した。師団長が講演をするという、前例のない検閲が滞りなく終わったので、吉富連隊長はようやく安心した。
辻政信少尉は昭和二年十月、陸軍歩兵中尉に進級した。翌年辻中尉は陸軍大学校を受験した。二十六歳だった。
その陸大受験の砲兵科試験官に面接したとき、試験官の感情を害するような答弁をして、叱責されたあげくに、次のように言われた。
「貴様は内甲では優秀な成績となっているが、提出した答案の内容ではだめだ」。
辻中尉は理由をその試験官に問いただし、強硬な態度で反論した。ますますいきりたった試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した。
受験に失敗したと辻中尉は思い込み、旅館に戻ると受験書類をすべて焼き捨て、第七連隊で同期の田辺新之中尉の家に「シケンヤメタヤドタノム」と電報を打った。
翌日の試験には出席しないで、辻中尉は金沢に帰るつもりでいたが、田辺中尉が急報したのであろう、石川県出身で陸軍省軍務局にいた青木少佐が、辻中尉を説得して受験を続けさせた結果、合格。昭和三年十二月、陸軍大学校(四三期)に入校した。
「まず皆に聞こう。皆は入営する前に、軍隊はよく品物が紛失するところだと聞いていただろう。入隊以来、今日まで所持品を失ったことのある者は、手をあげよ」。
兵隊は思いがけない質問にうろたえた様子で、誰も手を挙げない。辻少尉は彼らにすすめた。
「所持品を紛失した者はないのか。靴下、石鹸、剃刀、刷毛など、なんでもかまわない。師団長閣下、連隊長殿がおられても遠慮することはない。隠さないで手をあげよ」。
数人が挙手をした。
「それぐらいではないだろう。もっといるにちがいない」。
うながすうちに、小隊全員が手をあげた。辻少尉は一人ずつ、失ったものをたずねた。靴下、刷毛、襦袢、袴下、靴などさまざまの物を盗まれたと兵たちは答えた。
「よろしい。紛失の原因は一人が盗むことから始まる。軍隊では下給品を紛失すると叱られるので、一人が盗まれると他の者の品を盗む」
「盗まれた者はまた他の者の品を盗むので、隊内の者が全部同じことをしないわけにいかなくなる。これが内務班の悪習だ。今後そのようなことがあれば、ただちに班長に報告せよ。班長は叱らずに失った品を補充してやれ」。
辻少尉は軍隊生活のもっとも切実な問題を、するどく指摘した。吉冨連隊長は、師団長が気分を害しないかと顔色を失っていたが、辻少尉は平然と話を続けた。
「本日は営庭は見たとおり、きれいに片付いているが、道路際のあちこちに縄を張っているのは何のためか」。
兵隊が手をあげ、答えた。
「あれは近道をするため、芝生を横切る者が多いので、踏ませないようにしているのであります」。
「公聴心に欠けているから、そういうことをするのだ」。
辻少尉は兵舎内の清掃、衛生など十項目について、同じように質疑応答を行った後、訓話を切り上げた。
「教官がいま話したことは、さっきも言ったとおり、検閲のためではない。真剣にうけとめて、ただちに実行せよ」。
辻少尉は師団長に向かい、一場の談話を願った。
「閣下は先頃まで外国に駐在しておられたと聞き及んでおります。つきましては、外国人の公聴心についてのご教示を、この際ぜひお願いいたします」。
外国から帰ったばかりの師団長は、辻少尉に頼まれると、いい気分になって外国での見聞を披露した。師団長が講演をするという、前例のない検閲が滞りなく終わったので、吉富連隊長はようやく安心した。
辻政信少尉は昭和二年十月、陸軍歩兵中尉に進級した。翌年辻中尉は陸軍大学校を受験した。二十六歳だった。
その陸大受験の砲兵科試験官に面接したとき、試験官の感情を害するような答弁をして、叱責されたあげくに、次のように言われた。
「貴様は内甲では優秀な成績となっているが、提出した答案の内容ではだめだ」。
辻中尉は理由をその試験官に問いただし、強硬な態度で反論した。ますますいきりたった試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した。
受験に失敗したと辻中尉は思い込み、旅館に戻ると受験書類をすべて焼き捨て、第七連隊で同期の田辺新之中尉の家に「シケンヤメタヤドタノム」と電報を打った。
翌日の試験には出席しないで、辻中尉は金沢に帰るつもりでいたが、田辺中尉が急報したのであろう、石川県出身で陸軍省軍務局にいた青木少佐が、辻中尉を説得して受験を続けさせた結果、合格。昭和三年十二月、陸軍大学校(四三期)に入校した。