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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

341.辻政信陸軍大佐(1)まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)

2012年10月05日 | 辻政信陸軍大佐
昭和七年四月半ば、陸軍士官学校本科大講堂で、講演会が行われた。「辻政信―その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、著者の堀江芳孝氏は当時陸軍士官学校予科に入校して二週間だった。

 堀江芳孝(ほりえ・よしたか・陸士四八・陸大五六・少佐・第一〇九師団参謀)氏は、昭和二十年、硫黄島で指揮官・栗林忠道中将(陸士二六・陸大三五次席・一〇九師団長・小笠原兵団長・大将)の参謀として硫黄島防衛の作戦計画に従事したが、その後派遣参謀として硫黄島を離れ、父島に渡り、終戦を迎え生還した。

 堀江氏は、「闘魂・硫黄島―小笠原兵団参謀の回想」(光人社NF文庫)、「悲劇のサイパン島」(原書房)、「闘魂・ペリリュー島」(原書房)などの著書や「チャンドラ・ボースと日本」(原書房)など翻訳書が多数ある。

 陸軍士官学校本科大講堂で行われた講演会には、入校直後の堀江氏ら四八期から四四期までの生徒・職員約一六〇〇名が聴講した。

 大講堂には大きな白い垂幕が下がっていた。それは次のように記されていた。

 演題「一、皇道精神」、弁士「陸軍大臣、陸軍中将 荒木貞夫」。
演題「二、上海事件の体験」、弁士「歩兵第七連隊中隊長 陸軍歩兵中尉 辻 政信」。

 入校直後の堀江氏の目には、陸軍大臣と中隊長の間には、否中将と中尉の間には、天地の差があるものと見えた。

 最初に陸軍大臣・荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・文部大臣)が講演を行った。

 荒木大臣は「おそれ多くも殿下を頂く(当時四五期に朝香宮と李偶公、四八期に三笠宮の三殿下がいた)諸君の道は、殿下の御馬前で一身を投じて皇基を守護するを本務とすることを中核として日出る国に生を得た民草の心掛けについて長広舌をぶった。話の内容は平泉澄博士の講義と大同小異だった。

 だが、講演の最後に、次の弁士の方を一瞥した荒木大臣は「諸君がここに上海の歴戦勇士、辻君を迎えてその御話を承る機会を得られたことは喜びに堪えない」と結んだのには、堀江氏は驚いた。

 まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)というのが堀江氏のびっくりしたところだった。中将と中尉では格差があり過ぎるという感じを持っていたからだった。

 次に演壇に立ったのは、まさに辻政信中尉だった。第十九路軍との血戦、屍山をなす惨烈悲壮の肉弾戦、林連隊長の壮烈な戦死、夜襲戦における空閑少佐(大隊長)の人事不省、捕虜として拉致せられたが、捕虜交換協定で送り返された後の天晴れな自決の状況、その快刀乱麻を断つ弁舌のさわやかさ、急所をついて聴衆をアッと言わせる迫力、すべてが先の弁士の及ぶところではなかった。

 両弁士の右胸についた大学徽章(天保銭)燦然と、大講堂一帯に輝き渡った。堀江氏には強烈な刺激が与えられた。

 講演を聞いて、びっくりしたのは堀江氏だけではなかった。その後区隊でも中隊でも、食堂においても、県の下宿に行っても「凄い人がいるものだね、中尉で陸軍大臣顔負けとは」という辻中尉礼賛の話に花が咲いた。

<辻政信(つじ・まさのぶ)陸軍大佐プロフィル>
明治三十五年十月十一日、石川県江沼郡山中町(現在の加賀市山中温泉)生まれ。父亀吉(農業・炭焼き)、母もと次男。兄妹は六人。
大正四年(十四歳)三月東谷奥村村立尋常小学校卒(首席)。四月山中町立尋常小学校高等科入学。
大正六年(十六歳)九月一日名古屋陸軍地方幼年学校入学。
大正九年(十九歳)三月二十四日名古屋陸軍地方幼年学校卒業(四十八名中首席)。四月陸軍中央幼年学校本科(陸軍士官学校予科と改称)入学。
大正十一年(二十一歳)三月陸軍士官学校予科卒業(首席)。十月歩兵第七連隊(金沢)隊付。十月陸軍士官学校本科入校。
大正十三年(二十三歳)七月陸軍士官学校本科卒業(三六期・首席)。歩兵第七連隊第一中隊見習士官。十月歩兵少尉。
昭和二年(二十六歳)十月歩兵中尉。
昭和三年(二十七歳)十二月陸軍大学校入校。
昭和四年(二十八歳)九月青木千歳と結婚。
昭和六年(三十歳)十一月陸軍大学校卒業(四三期・恩賜三番)。歩兵第七連隊付。
昭和七年(三十一歳)二月動員下令・歩兵第七連隊第二中隊長。上海事変に出征。六月金沢歩兵第七連隊に凱旋復員。八月歩兵大尉。九月参謀本部付。十二月参謀本部部員。
昭和九年(三十三歳)八月陸軍士官学校本科生徒隊中隊長。
昭和十年(三十四歳)二月陸軍士官学校付。十一月事件の疑にて重謹慎仰せ付けられる。四月水戸歩兵第二連隊付。
昭和十一年(三十五歳)四月関東軍司令部付。
昭和十二年(三十六歳)八月北支那方面軍参謀。十一月関東軍参謀。
昭和十三年(三十七歳)三月歩兵少佐。
昭和十四年(三十八歳)ノモンハン事件(前線で作戦指導)。九月中支漢口第十一軍司令部参謀。
昭和十五年(三十九歳)二月支那派遣軍総司令部付(南京)。八月歩兵中佐。十一月台湾軍研究部部員。
昭和十六年(四十歳)七月参謀本部部員。兼兵站総監部参謀。九月第二十五軍参謀。十二月マレー・シンゴラ上陸(マレー攻略戦に参加)。
昭和十七年(四十一歳)二月シンガポール戦。三月参謀本部作戦班長。七月南方戦線に出張(ラバウル・ガダルカナル島に参戦、戦傷)。
昭和十八年(四十二歳)一月肺炎・黒水病にて入院。二月陸軍大学校兵学教官。八月歩兵大佐。支那派遣軍参謀。
昭和十九年(四十三歳)七月ビルマ第三十三軍参謀。
昭和二十年(四十四歳)五月戦傷。五月タイ駐屯第三十九軍参謀。七月第十八方面軍参謀。八月終戦。地下潜行(軍司令官・中村明人中将の諒解を得てタイ・仏印・中国に潜伏)。英国から戦犯容疑を受ける。
昭和二十三年(四十七歳)五月帰国。
昭和二十五年(四十九歳)三月戦犯解除となる。五月著書出版。
昭和二十七年(五十一歳)十月衆議院議員第一回当選。
昭和二十八年(五十二歳)四月衆議院議員第二回当選。
昭和三十年(五十四歳)三月衆議院議員第三回当選。
昭和三十三年(五十七歳)五月衆議院議員第四回当選。
昭和三十四年(五十八歳)六月参議院全国区議員当選。
昭和三十六年(六十歳)四月東南アジアへ羽田空港出発。ラオスにて消息不明となる。
昭和四十四年六月二十八日東京家庭裁判所が昭和四十三年七月二十日付での死亡(六十七歳)を宣告、国籍上故人となる。

 著書は「ノモンハン」(亜東書房)、「十五対一」(酣燈社)、「1960年」(東都書房)、「ズバリ直言」(同)、「世界の火薬庫をのぞく」(同)、「亜細亜の共感」(亜東書房)、「自衛中立」(同)、「ガダルカナル」(養徳社)、「この日本を」(協同出版)、「これでよいのか」(有紀書房)、「シンガポール」(東西南北社)、「潜行三千里」(亜東書房)、「ノモンハン秘史」(毎日ワンズ)、「私の選挙戦」(同)などがある。