陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

273.今村均陸軍大将(13)私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ

2011年06月17日 | 今村均陸軍大将
 この希望が入れられ、今村大佐は参謀本部付の肩書きで、上海へ出張した。陸海軍協同作戦を円滑にし、また、出先の軍と中央軍部との関係を緊密にする任務であった。

 今村均の長男、和男は、当時の今村大佐について、次の様に語っている。

 「上海から帰った父が、いきなり家族を集めて、『私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ』と、言い渡しました」。

 今村はその理由を「上海で私の護衛に当たった海軍陸戦隊の兵二人が、敵弾で死んだ。この二人の後生を弔うため」と説明している。

 これについて島貫重節(陸士四五・陸大五三・中佐・陸将)は、次の様に語っている(島貫重節は昭和十八年、参謀次長とラバウルに同行して今村に会っている。また、戦後、島貫重節は陸上自衛隊に入隊し、第九師団長、東北方面総監を歴任し、今村均とは親しかった)。

 「作戦課長というのは非常に重要な、大変な役目ですよ。それを僅か七ヶ月でやめさせられた今村さんの気持ちは、察するに余りあります。自分の前途がどうこうの問題ではなく。軍中央への強い批判があったはずです」

 「あれほど筋を通して立派に勤めてきたのに、まるで失敗でもあったような扱いですからね。左遷も左遷、上海行きは連絡将校のような役だし、次の役も作戦課長のあとにはふさわしくない。恥をかかされたようなものです。軍人の社会はいやだ~という気持ちにもなりましょう」

 今村大佐の辞職願いは受理されず、昭和七年三月中旬、今村大佐は千葉県佐倉の歩兵第五十七連隊長に転出した。

 このときの今村大佐がどれほど深く心を傷つけられたかは、手記に散見される。昭和十二年に作戦部長の要職にあった石原莞爾少将が部下はじめ周囲の人心を失い、関東軍参謀副長として満州へ去った。

 このことを知った今村均は「かつて私が中央を追われたときを追想し、心から同情を寄せた」と記している。

 昭和八年八月から陸軍習志野学校幹事を務めていた今村大佐は、昭和十年二月、校長の指示で陸軍省へ行き、人事局長・松浦淳六郎少将(陸士一五・陸大二四・後の中将)に会った。

 用談が済んだ後、松浦少将は、今村大佐に次の様に告げた。

 「あなたは来月の異動で将官に進級し、東京の歩兵第一旅団長になると内定しています」。

 今村大佐は、少将への進級を、気の重そうな筆で手記に記している。歩兵第一旅団長になることも、「東京旅団の如き演習場に遠いところの部隊に長となることは、不運とさえ思われた」と、この栄転にも心をはずませてはいなかった。

 ところが、三月一日、人事異動の命令が発表されてみると、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)は朝鮮の首都、京城の瀧山にある歩兵第四十旅団長に補されていた。

 その夜少将に進級した将校二十人ほどが、陸相官邸に招待された。その席で松浦人事局長が今村少将に「君には相すまんことをした」と、バツの悪い顔で次の様に語った。

 「実は朝鮮へ行くはずだった工藤義雄少将(陸士一七・陸大二七・少将で待命)から『家内が病気で、東京を離れがたいのだが…』と相談を受け、君と任地をとりかえるほかはなかったのだ」。

 東京の旅団長は近衛師団と第一師団の両師団に二人ずつ、計四名の配置である。この四人は選抜された優秀な人物と目され、将来の師団長を約束されたポストと考えられていた。

 今村少将と工藤少将の任地交換は、たちまち話題になり、中には「皇道派が人事局に干渉した結果だ」と、今村少将に同情の手紙を寄せる人々もいた。

 だが、今村少将は、そうした噂を取り上げず、同情の手紙には返事も出さずに、“軍隊練成に適した任地”である瀧山に明るい表情で出発した。

 ところが、この“任地交換”が、一年後に今村少将の軍人生命を救うという意外な結果を生んだ。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。天皇の「みずから討伐する」という異例の意思表示もあって、間もなく二・二六事件は終結した。

 その年の四月、陸軍は事件発生の責任上、最新参の寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・後の元帥)と植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)の両大将を除く全現役大将の予備役編入、及び事件関係者を出した部隊の連隊長(大佐)以上の現役からの退去を発表した。

 約一年前の異動期に、もし工藤少将が病妻のための東京勤務を申し出なかったら、今村少将が、二・二六事件関係者を出した第一師団の旅団長として現役を退かされ、軍人の生涯を閉じていたのだった。