陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

271.今村均陸軍大将(11)君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した

2011年06月03日 | 今村均陸軍大将
 軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五)から今村中尉に電話がかかってきた。来てくれとのことなので、行くと津野大佐は次の様に言った。

 「君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した。どうなるか心配される。どんなことだったか聞かせてくれたまえ」。

 今村中尉が、これまでのいきさつを述べると、津野大佐は次の様に言った。

 「そうか、わかった。和田は僕とも同期生だ。気持ちはいいんだが、あんまり几帳面すぎるんで、よくこんな問題を起こす。君の考えも奥平の気持ちも尤ものことと同感される。が、こんな小さなことから、省内で軍務局と官房とが、気まずくなっては面白くない。それで僕が仲に入り、君を面罵した点は、和田をして局長にあやまらせるつもりだ。そのきっかけを作る何かの道があるまいか。それで君と相談しようと思い、来てもらったんだ」。

 これを聞いた今村中尉は次の様に答えた。

 「ご心配をかけて相すみません。私は奥平課長の考えは正しい、私も何ら失礼なことは申しておりませんので、副官殿に陳謝などいたしません。しかし冷静になって考えて見ますと、和田大佐殿は、私の将来の心掛けにつき実によい戦史上の教訓を与えてくれました。この点から問題を片付けることが出来ると考えます」。

 津野大佐が「そうか。君もこの事柄を解決しようと思っているなら結構だ。いろいろとデマも飛び出している。早いほうがいいと思うな…」といったので、今村中尉は、「これからすぐ私は副官室に参ります」と答え、和田大佐のところへ行ってみた。

 今村中尉が「今朝のことで一言申し上げたいことがあります」と言うと、和田大佐は「何か」と、依然として、こわばったむずかしい顔をしていた。

 今村中尉は次の様に言った。

 「私は、奥平課長の考えは間違っておらず、私も礼を失したことを、申さなかったつもりでおります。それで副官殿にお詫びはいたしません。しかし、教えて頂きました旅順の戦例は、私の将来に、実によい教訓でありました。その手始めに、私の課の全書記と私とで本夜徹夜し、各師団の点呼計画表を、同一様式の紙に清書しなおし、明朝改めて官房に差し出すことに決心いたしました」。

 こわばっていた、和田大佐の顔が、いっぺんに崩れ、笑みを浮かべて、しんからの喜びの情を表し、次の様に言った。

 「そんなにあの戦例を理解してくれたか。……人から聞いて、僕の短気は知っていたろうが、もって生まれたしょうぶんはなかなか直らんでな…。あんなに大げさなことにして、相済まなかった。君の課もいそがしかろうから、官房のほうからも、手のすいている者を加勢に出す。武官府のほうには、一日遅れることを、こちらから電話しておこう……」。

 三十分後、津野大佐が今村中尉に電話をかけてきた。

 「和田副官がやってきて、今、奈良局長に申し訳の挨拶をして、事柄がおさまった。今夜、僕と和田と奥平の三人で同期生会を開き、一緒に飲むことにした。君もこんなことはなかったことにして、気を休めてくれたまえ」。

 この日以来、今村中尉の書類はほとんどすべて無条件で官房を通り、すらすらと運んだ。和田副官にいつ会っても、にこっと笑い、今村中尉の敬礼に答礼し、時には講話の下書きを頼まれたり、官舎に招かれ、夕食を饗された。

 陸軍省高級副官・和田亀治大佐(陸士六・陸大一五・大分県出身)は、その後、大正八年陸軍少将・陸軍大学校幹事、大正十年参謀本部第三部長、大正十二年陸軍中将・陸軍大学校長、大正十三年欧米出張、大正十四年第一師団長を歴任して、昭和三年待命、予備役編入。後に帝国在郷軍人会副会長を務めた。昭和二十年没。

 陸軍省軍務局歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六・東京都出身)は、その後、大正九年陸軍少将、大正十一年歩兵第二旅団長、大正十三年陸軍中将・待命、予備役編入。昭和二十八年没。

 陸軍省軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五・山口県出身)は、その後、大正七年陸軍少将・近衛歩兵第二旅団長、陸軍士官学校長、大正十二年陸軍中将・教育総監部本部長、陸軍次官を歴任。昭和三年近衛師団長在任中に死去。

 昭和六年八月一日、今村均大佐は軍務局徴募課長から、参謀本部の最も重要なポストの一つである作戦課長になった。大佐の二年目で、四十五歳であった。

 今村大佐が参謀本部作戦課長になって、一月半後の九月十八日、満州事変の発端である柳条溝事件が勃発した。今村大佐は、その処理に奔走した。