陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

95.片倉衷陸軍少将(5) やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった

2008年01月18日 | 片倉衷陸軍少将
 長崎の講演の帰り、駅のプラットホームに警察官がいて尾行されているのが分かった。片倉大尉は要注意人物としてマークされたのだ。

 ある日自宅で小倉の護国軍という右翼関係の者と話をしていると、自宅の縁の下に警察官が潜んでいるのが分かった。

 片倉大尉は縁の下に聞こえるように「槍で突くぞ」と怒鳴ったところ、脱兎のごとく逃げ出した。

 この頃の陸軍は混乱していた。荒木貞夫陸相に青年将校たちが引き付けられ、直接出入りし、また荒木陸相も国家革新を様々な場所で公言していた。

 隊付きの青年将校は師団長、連隊長が地域、部隊の情勢を加味して訓示しても、「それは大臣の意図と違う」「そのようなことは大臣の意思ではない」との反論の気風も生じていた。

 片倉大尉の考えは、軍を組織的に動かすことにあり、個人の暴動、叛乱には絶対に反対の立場をとっていたのでこのような動向に、苦々しく思っていた。

 昭和8年8月、片倉大尉は参謀本部第二部第四課第四班へ転補された。石原莞爾大佐らが「片倉を小倉に置いておかず、中央で使ってくれ」と尽力したのだ。

 片倉大尉は登庁後、武藤章班長の所へ着任の挨拶に行くと、彼は人差し指を曲げて拳銃を撃つまねをして、「君、これはやらんだろうな」と言った。

 片倉大尉は「イヤ、私は国家革新の必要は痛感していますが、テロは押さえる方です。ご安心ください」と応酬した。

 「龍虎の争い」(紀尾井書房)によると、2.26事件の前の、昭和9年11月20日、陸軍大学校在学中の皇道派青年将校、村中孝次大尉(三十七期)、磯部浅一一等主計(三十八期)ほか一名および陸軍士官学校在学の士官候補生五名がクーデター計画が有るという理由で逮捕された。

 統制派の陸軍士官学校中隊長・辻政信大尉と参謀本部部員・片倉衷少佐の報告によるものだった。

 逮捕された者は軍法会議で審査されたが、証拠不十分で不起訴となり、村中、磯部は昭和10年3月29日その行動、軍規上適当ならずとの理由を以て行政処分で停職に処せられ、後に免官となった。十一月事件である。

 この事件は当時陸士中隊長であった辻政信大尉が自らの担任する士官候補生をスパイに使って聞知した片言を基礎にして事件を作り上げたと言われている。

 田中清少佐(二十九期)が後年、「昭和の軍閥」の著者、高橋正衛氏に語った内容が残っている。

 「十一月二十日、私は兵要地誌班で池田純久(すみひさ)中佐と雑談していた。そこに片倉が飛び込んできて『やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった』と叫んで部屋を出て行った。

 池田中佐は『同じ軍人でスパイを使ってやったの、やられたのとは全く不愉快だ』とつぶやいた」と田中少佐は語ったという。同じ統制派幕僚でもこのような感じの人もいた。