「語りつぐ昭和史1」(朝日文庫)によると、昭和6年9月18日の晩、柳条溝事件が起きた。
本庄繁軍司令官以下、関東軍幕僚は19日午前三時列車で旅順を出発して、奉天に向かった。
ところがその日の夕方、東京から「今までの行動はいいが、これから先、事態を拡大してはいけない」という参謀総長の電報が来た。
その電報を受け取った石原莞爾中佐は「もう俺は作戦主任をやめた。片倉、貴様やれ」と言った。
片倉大尉は当時参謀部付の幕僚で、まだ参謀になっていない。片倉大尉は「あなた、そんなばかなことを言っちゃいかん。今、中央からは幸いに作戦部長の建川美次少将がきているから、これとひとつゆっくり話し合ってみなさい」と進言した。
建川美次少将は関東軍の行動を抑えるために東京から派遣されていた。ところが板垣高級参謀が建川少将を奉天の菊文という料亭に誘導して、いわば軟禁していた。
建川少将はドカンドカンと撃っているのを知っていたが、料亭にじっとしていたという。
結局その建川少将を迎えに行くことになった。板垣大佐と石原中佐が「だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け。場所は奉天の特務機関の花谷から聞け」ということになり、片倉大尉は奉天の特務機関に行った。
片倉大尉は着くなり花谷少佐をどなりつけた。「なんだ!貴様、この間俺に嘘をついたろう。何をごまかしたんだ」と。
すると花谷少佐は「いや、俺は絶対に嘘はうそはついていない。18日の決行は俺も知らなかったんだ」と言って寝台の上にひっくりかえった。
だが、片倉大尉は斬りつけるぐらいの勢いで、背信行為をせめたという。
「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、元陸軍少将の今井武夫氏が「柳条溝事件をめぐって関東軍の内情を探る」と題してインタビューに答えている。
それによると柳条溝事件が9月18日勃発した。その後、9月28日、中央では参謀本部第二部長・橋本虎之助少将を中心にした、橋本班を編成して関東軍に派遣し調査・連絡に乗り出した。
当時参謀本部部員だった今井大尉も橋本班に組み入れられ関東軍に派遣された。
今井大尉らの橋本班が満州、奉天の関東軍につくと、橋本少将、西原一策少佐、遠藤三郎少佐、今井大尉の四人は、旅館の応接間に通された。
待っていると三宅光治参謀長を先頭に、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉、土肥原大佐、竹下参謀ら関東軍のお歴々がドカドカとやって来た。花谷正少佐はいなかった。
本庄繁軍司令官以下、関東軍幕僚は19日午前三時列車で旅順を出発して、奉天に向かった。
ところがその日の夕方、東京から「今までの行動はいいが、これから先、事態を拡大してはいけない」という参謀総長の電報が来た。
その電報を受け取った石原莞爾中佐は「もう俺は作戦主任をやめた。片倉、貴様やれ」と言った。
片倉大尉は当時参謀部付の幕僚で、まだ参謀になっていない。片倉大尉は「あなた、そんなばかなことを言っちゃいかん。今、中央からは幸いに作戦部長の建川美次少将がきているから、これとひとつゆっくり話し合ってみなさい」と進言した。
建川美次少将は関東軍の行動を抑えるために東京から派遣されていた。ところが板垣高級参謀が建川少将を奉天の菊文という料亭に誘導して、いわば軟禁していた。
建川少将はドカンドカンと撃っているのを知っていたが、料亭にじっとしていたという。
結局その建川少将を迎えに行くことになった。板垣大佐と石原中佐が「だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け。場所は奉天の特務機関の花谷から聞け」ということになり、片倉大尉は奉天の特務機関に行った。
片倉大尉は着くなり花谷少佐をどなりつけた。「なんだ!貴様、この間俺に嘘をついたろう。何をごまかしたんだ」と。
すると花谷少佐は「いや、俺は絶対に嘘はうそはついていない。18日の決行は俺も知らなかったんだ」と言って寝台の上にひっくりかえった。
だが、片倉大尉は斬りつけるぐらいの勢いで、背信行為をせめたという。
「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、元陸軍少将の今井武夫氏が「柳条溝事件をめぐって関東軍の内情を探る」と題してインタビューに答えている。
それによると柳条溝事件が9月18日勃発した。その後、9月28日、中央では参謀本部第二部長・橋本虎之助少将を中心にした、橋本班を編成して関東軍に派遣し調査・連絡に乗り出した。
当時参謀本部部員だった今井大尉も橋本班に組み入れられ関東軍に派遣された。
今井大尉らの橋本班が満州、奉天の関東軍につくと、橋本少将、西原一策少佐、遠藤三郎少佐、今井大尉の四人は、旅館の応接間に通された。
待っていると三宅光治参謀長を先頭に、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉、土肥原大佐、竹下参謀ら関東軍のお歴々がドカドカとやって来た。花谷正少佐はいなかった。