陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

82.宇垣纏海軍中将(2) そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった

2007年10月19日 | 宇垣纏海軍中将
 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)によると、「特攻艦隊二長官、宇垣纏と醍醐忠重」と題して元海軍中佐・鳥巣建之助氏が寄稿している。

 それによると、宇垣が少将で軍令部第一部長の時に発生した仏印進駐のあと、昭和15年10月8日、芝水交会で開催された陸海軍中央合同研究会の一断面を「統帥乱れて」(大井篤著)からの引用で述べている。

 左隣の佐藤(南支那方面参謀副長・佐藤賢了大佐)がもぞもぞし始めた。ちらりと目をやると、まず詰襟のホックを、次いで五つもあるボタンを全部外し、肌着襦袢の上部をあらわにした。

 わたしの説明が終わったわけでもないのに、佐藤は両手でカーキ色の軍衣を左右に開きつつ、一メートル半ばかり目前の席で会議を司会している軍令部第一部長・宇垣少将に向かい、こう言った。  
 
 「一介の属吏にすぎない軍令部第一部長が大命を勝手に解釈して作戦部隊の行動を指示したりするから、いま二遣支参謀が述べたようなことになる。統帥の尊厳を損なうものだ」

 宇垣は私の海軍大学校当時の教官だった。気性が激しく、兵棋演習のさい、学生が丁寧に並べた兵棋のコマを「この並べようはなんじゃ」とスリッパで蹴飛ばしたことさえあった。

 あの荒武者の宇垣が右の佐藤の不遜な発言に一言も答えず、安楽椅子に腰を埋めてじっとしている。宇垣の隣席の近藤(軍令部次長・近藤信竹中将)を含め、誰もが黙ったまま。私には不可解な情景だった。

 ヤクザまがいの佐藤のしぐさ、海軍統帥部に対する理不尽かつ無礼極まる発言、そして海軍側の卑屈そのものの対応、そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった。

 「海軍参謀」(文藝春秋)によると、山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊は、真珠湾攻撃、マレー沖、南方作戦、ミッドウェー、珊瑚海、ガダルカナル、ソロモンと問題の多い作戦の計画と指導を続けた。

 その連合艦隊司令部で作戦を主導的に進めていったのが黒島亀人先任参謀であった。黒島参謀のすぐれた点は独創力と構成力にあり、山本長官から厚い信頼を受けていた。

 だが結果的にこれらの作戦は、黒島参謀の主観的、思い込み的、自己過信、敵過小評価的指導による大失敗に脅かされた。

 黒島の独走を抑える役目は本来は参謀長の宇垣少将であった。だが連合艦隊司令部では宇垣参謀長は浮いた存在であった。だからその機能を果たしていなかった。

 悪いことに、黒島参謀は山本長官が着任した昭和14年9月1日から二ヶ月たたない10月20日に発令されている。

 渡辺戦務参謀も、黒島参謀に十日遅れただけの11月1日発令で着任している。なのに、宇垣参謀長の着任は16年8月。二年も遅かった。

 山本長官が、日米開戦の場合、どんな作戦をとるべきか、長い間悩みぬいて、最後に真珠湾攻撃を決心したのは15年11月末だったろうと考えられている。
 
 黒島、渡辺参謀はその苦悩と決断を陰に陽に補佐してきたし、山本長官が決心した前後に着任した佐々木航空参謀、有馬水雷参謀、和田通信参謀たちも、黒島、渡辺参謀と一緒に開戦当初の真珠湾攻撃や南方作戦の計画と準備に知恵を絞り、力を尽くした。

 宇垣参謀長が着任した16年8月には、開戦から南方作戦が終わるまでの第一段作戦は、ほとんどの作戦研究と計画立案が終わっていた。

 しかも宇垣参謀長の着任の遅れは、山本長官が忌避したからだった。本当なら、宇垣少将は軍令部作戦部長からまっすぐ連合艦隊参謀長に着任するはずだった。

 だが、第八戦隊(重巡戦隊)の司令官を四ヶ月やらされ道草を食ったのだった。