「海軍参謀」(文藝春秋)によると、連合艦隊司令長官山本五十六大将は宇垣纏参謀長が嫌いである。
山本長官は嫌いな人間には口を利かない。利いても無愛想な切り口上になる。普通のしゃべり方になるには、相手にいくらかでも心を許さないといけない。感情の非常にきつい人の特徴である。
宇垣参謀長が山本長官に嫌われている理由は、山本長官が次官時代に命がけで反対し続けた日独伊三国同盟に、宇垣が軍令部作戦部長時代に最終的に結局賛成したことだった。
宇垣少将は積極的に賛成したわけではなく、やむをえず「よかろう」と言ったのだから山本長官に申し開きはできると考えていた。
だが、申し開きをしても、それを聞いて、心を開いてくれる人ではない、と宇垣参謀長は見ていた。時間をかけて氷が解けるのを待つしかないと。
ミッドウェー作戦を担当したのは、黒島亀人大佐・先任参謀と渡辺安治中佐・参謀であった。
宇垣参謀長は山本長官が嫌いだからと、カヤの外に置かれていた。そうすると、参謀長の役目は誰がするのか。
黒島先任参謀は「変人参謀」であり「仙人参謀」であって、ものを考え始めると私室に篭って出てこない。極端に自分中心で動いているから艦隊令に定められたような参謀長の職務は代行できない。
渡辺戦務参謀は黒島先任参謀の仕事の一部を代行して幕僚陣を束ねてはいるが、参謀長の代行はキャリア不足でとても無理だった。
とすれば、種を播いた山本長官が刈り取らなければならなくなるが、彼は日ごろは無口で容易に自分の腹を明かさない。
これでは連合艦隊司令部のシステムが円滑に動くわけがない。ミッドウェー作戦はこんな空気の中から忽然と浮上した。
黒島と渡辺参謀は猛然と走り出し、後から考えると正気の沙汰とも思えないラフな作戦準備が、強引に急がれていった。
「ひどいもので、箸にも棒にもかからぬ。連合艦隊司令部はもう神がかりだ」と「強引に急がされた」人たちは憤慨した。
結局、ミッドウェー海戦は、惨敗した。司令部の参謀たちは動揺し、黒島先任参謀も涙を流した。作戦は中止され、総引き揚げに転じた。
このときの宇垣参謀長の直接指揮振りは、さすがに水際立っていた。指揮下の部隊に発光信号を打たせたその信文までも、宇垣が口述した。
そばで見ていた司令部付の大佐が、こう言った。「いや、快刀乱麻とはこのことだろう。いつも、山本長官の威光をカサに威張っていた参謀連中が、まるで小間使いのようだった」
この後から宇垣の陣中日誌「戦藻録(せんそうろく)」の記事が、活き活きしてきた。借りてきた猫のようだった宇垣参謀長が、ミッドウェーの大敗を機に、司令部の中でそれなりに重量を持つようになった。
宇垣はもともと「人を人とも思わぬ増長慢で、近寄り難いサムライだ。独善的で激しい。こんな下手くそやって、何だッ、とワケなく怒鳴る男だ」といわれ評判はひどく悪い。
「山本長官の敬礼は、実に端正だ。二等兵が相手でもゆるがせにしない。ちゃんと挙手注目される。しかるに宇垣参謀長は、頭をチョッと後ろに反らすだけだ。それが答礼だ。しかも相手の敬礼の仕方が気に食わないと、黄金仮面とあだ名された顔を向けて、睨みつけるから恐れ入る」と某大佐は首を振り、とてもいけません、というジェスチャーをした。
<宇垣纏海軍中将プロフィル>
明治23年2月岡山県赤磐郡潟瀬村に宇垣善蔵の次男として生まれる。
明治42年2月岡山県立第一中学校卒業。9月海軍兵学校生徒(四十期)。同期生に山口多門、福留繁、大西瀧治郎、寺岡謹平など。
明治45年7月海軍兵学校卒業。144人中9番で卒業。
大正2年12月海軍少尉。大正4年12月海軍中尉。大正7年12月海軍大尉。大正8年12月砲術学校高等科学生修了。
大正11年6月海軍大学校甲種学生(海軍大尉)。大正13年11月海軍大学校卒業(22期)。12月海軍少佐。
大正14年12月海軍軍令部参謀。昭和3年11月ドイツ駐在海軍武官。12月海軍中佐。
昭和5年12月第五戦隊参謀。昭和6年12月第二艦隊参謀。昭和7年11月海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。12月1日海軍大佐。
昭和10年10月連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。昭和11年12月海防艦八雲艦長。昭和12年12月戦艦日向艦長。
昭和13年11月海軍少将。12月海軍軍令部第一部長。昭和16年4月第八戦隊司令官。8月連合艦隊参謀長。12月ハワイ真珠湾攻撃。
昭和17年11月海軍中将。
昭和18年4月連合艦隊司令長官山本五十六大将ブイン上空で戦死(海軍甲事件)。二番機搭乗の宇垣参謀長、海中に沈没するも奇跡的に救出される。戦傷のまま旗艦武蔵に運ばれる。軍令部出仕、戦傷。
昭和19年2月第一戦隊司令官。7月16日宇垣司令官、戦艦大和、武蔵、駆逐艦三隻を率いてリンガ泊地に到着。10月レイテ海戦。11月24日軍令部出仕。
昭和20年2月10日第五航空艦隊司令長官。14日鹿屋基地に将旗を掲揚。3月11日梓特攻作戦(ウルシー基地特攻)。4月6日菊水一号作戦。7日大和特攻。12日菊水二号作戦、15日菊水三号作戦、28日菊水四号作戦、5月24日菊水7号作戦、27日菊水八号作戦、6月22日菊水10号作戦で菊水作戦打ち切り。
昭和20年8月10日第三航空艦隊司令官に親補(後任は草鹿龍之介中将)。14日草鹿長官大分に到着せず。15日正午玉音放送、終戦。午後七時二十四分、宇垣長官、彗星で沖縄特攻、散華(56歳)。共にしたもの艦爆機彗星十一機、十六名。
山本長官は嫌いな人間には口を利かない。利いても無愛想な切り口上になる。普通のしゃべり方になるには、相手にいくらかでも心を許さないといけない。感情の非常にきつい人の特徴である。
宇垣参謀長が山本長官に嫌われている理由は、山本長官が次官時代に命がけで反対し続けた日独伊三国同盟に、宇垣が軍令部作戦部長時代に最終的に結局賛成したことだった。
宇垣少将は積極的に賛成したわけではなく、やむをえず「よかろう」と言ったのだから山本長官に申し開きはできると考えていた。
だが、申し開きをしても、それを聞いて、心を開いてくれる人ではない、と宇垣参謀長は見ていた。時間をかけて氷が解けるのを待つしかないと。
ミッドウェー作戦を担当したのは、黒島亀人大佐・先任参謀と渡辺安治中佐・参謀であった。
宇垣参謀長は山本長官が嫌いだからと、カヤの外に置かれていた。そうすると、参謀長の役目は誰がするのか。
黒島先任参謀は「変人参謀」であり「仙人参謀」であって、ものを考え始めると私室に篭って出てこない。極端に自分中心で動いているから艦隊令に定められたような参謀長の職務は代行できない。
渡辺戦務参謀は黒島先任参謀の仕事の一部を代行して幕僚陣を束ねてはいるが、参謀長の代行はキャリア不足でとても無理だった。
とすれば、種を播いた山本長官が刈り取らなければならなくなるが、彼は日ごろは無口で容易に自分の腹を明かさない。
これでは連合艦隊司令部のシステムが円滑に動くわけがない。ミッドウェー作戦はこんな空気の中から忽然と浮上した。
黒島と渡辺参謀は猛然と走り出し、後から考えると正気の沙汰とも思えないラフな作戦準備が、強引に急がれていった。
「ひどいもので、箸にも棒にもかからぬ。連合艦隊司令部はもう神がかりだ」と「強引に急がされた」人たちは憤慨した。
結局、ミッドウェー海戦は、惨敗した。司令部の参謀たちは動揺し、黒島先任参謀も涙を流した。作戦は中止され、総引き揚げに転じた。
このときの宇垣参謀長の直接指揮振りは、さすがに水際立っていた。指揮下の部隊に発光信号を打たせたその信文までも、宇垣が口述した。
そばで見ていた司令部付の大佐が、こう言った。「いや、快刀乱麻とはこのことだろう。いつも、山本長官の威光をカサに威張っていた参謀連中が、まるで小間使いのようだった」
この後から宇垣の陣中日誌「戦藻録(せんそうろく)」の記事が、活き活きしてきた。借りてきた猫のようだった宇垣参謀長が、ミッドウェーの大敗を機に、司令部の中でそれなりに重量を持つようになった。
宇垣はもともと「人を人とも思わぬ増長慢で、近寄り難いサムライだ。独善的で激しい。こんな下手くそやって、何だッ、とワケなく怒鳴る男だ」といわれ評判はひどく悪い。
「山本長官の敬礼は、実に端正だ。二等兵が相手でもゆるがせにしない。ちゃんと挙手注目される。しかるに宇垣参謀長は、頭をチョッと後ろに反らすだけだ。それが答礼だ。しかも相手の敬礼の仕方が気に食わないと、黄金仮面とあだ名された顔を向けて、睨みつけるから恐れ入る」と某大佐は首を振り、とてもいけません、というジェスチャーをした。
<宇垣纏海軍中将プロフィル>
明治23年2月岡山県赤磐郡潟瀬村に宇垣善蔵の次男として生まれる。
明治42年2月岡山県立第一中学校卒業。9月海軍兵学校生徒(四十期)。同期生に山口多門、福留繁、大西瀧治郎、寺岡謹平など。
明治45年7月海軍兵学校卒業。144人中9番で卒業。
大正2年12月海軍少尉。大正4年12月海軍中尉。大正7年12月海軍大尉。大正8年12月砲術学校高等科学生修了。
大正11年6月海軍大学校甲種学生(海軍大尉)。大正13年11月海軍大学校卒業(22期)。12月海軍少佐。
大正14年12月海軍軍令部参謀。昭和3年11月ドイツ駐在海軍武官。12月海軍中佐。
昭和5年12月第五戦隊参謀。昭和6年12月第二艦隊参謀。昭和7年11月海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。12月1日海軍大佐。
昭和10年10月連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。昭和11年12月海防艦八雲艦長。昭和12年12月戦艦日向艦長。
昭和13年11月海軍少将。12月海軍軍令部第一部長。昭和16年4月第八戦隊司令官。8月連合艦隊参謀長。12月ハワイ真珠湾攻撃。
昭和17年11月海軍中将。
昭和18年4月連合艦隊司令長官山本五十六大将ブイン上空で戦死(海軍甲事件)。二番機搭乗の宇垣参謀長、海中に沈没するも奇跡的に救出される。戦傷のまま旗艦武蔵に運ばれる。軍令部出仕、戦傷。
昭和19年2月第一戦隊司令官。7月16日宇垣司令官、戦艦大和、武蔵、駆逐艦三隻を率いてリンガ泊地に到着。10月レイテ海戦。11月24日軍令部出仕。
昭和20年2月10日第五航空艦隊司令長官。14日鹿屋基地に将旗を掲揚。3月11日梓特攻作戦(ウルシー基地特攻)。4月6日菊水一号作戦。7日大和特攻。12日菊水二号作戦、15日菊水三号作戦、28日菊水四号作戦、5月24日菊水7号作戦、27日菊水八号作戦、6月22日菊水10号作戦で菊水作戦打ち切り。
昭和20年8月10日第三航空艦隊司令官に親補(後任は草鹿龍之介中将)。14日草鹿長官大分に到着せず。15日正午玉音放送、終戦。午後七時二十四分、宇垣長官、彗星で沖縄特攻、散華(56歳)。共にしたもの艦爆機彗星十一機、十六名。