「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、昭和12年9月27日、石原は関東軍参謀副長を命じられた。
関東軍に赴任した石原は、「独立国である満州国政治に関東軍が干渉主権侵害であるから、満人の政治的意思を尊重し、関東軍の内面指導を即時撤廃せよ」と植田謙吉関東軍司令官に意見書を提出した。
だが参謀長の東條英機はこの石原の意見書に反対した。石原に対する内面指導は強まる一方だった。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、満州国の農業政策大綱が決まり、農事合作社が設立される事になり、政府から実業部総務司長・岸信介、五十子巻三ら三人が関東軍司令部へ説明に出向いた。
東條参謀長、石原副長、片倉課長が応対した。五十子の説明が終わると、石原副長が「よくわかりました。制度としては結構です。ただし、これを実施するについては、全満一斉にやろうとなどと考えないで、最初はそれぞれ事情のちがうところ五、六ヶ所を選んで、試験的にやってみて、実施中に改善すべき所がでてきたら改善するという風でひろげていったらいかがでしょう」と言った。
五十子がなるほど大変いい注意だと思って感心していると、今度は東條が「五十子君」と呼んで何か言おうとした。
すると石原はそれを押さえるように「五十子さん、もうこれでいいです。この人は憲兵ですから、合作社のことなんかわからないのです。これで決定しました」と言って席を立った。
東條も苦笑しながら席を立った。ここまでくれば公然たる侮辱である。東條が苦笑以上の言動に出なかったのは、紳士としての自制心を持っていた。
だが、その紳士的な態度の裏で、東條は石原の官舎の周辺に憲兵を張り込ませていた。
これに良く似た話は数限りなくある。あるとき石原が執務していると、東條から用談があるから自分の部屋まで来てくれと、呼び出しが来た。
石原は使いの者に「こちらは用がないから、行かないと言ってくれ」と言ったそうである。
東條が陸軍次官に昇進して満州を去ったのは昭和13年5月で、その後、石原が参謀長になると予想されたが、一ヵ月後の6月に磯谷廉介中将が参謀長に決まり赴任してきた。
これは東條の決めた人事だったと言われている。東條は陸士1期上の磯谷とは親交があった。 結局、石原は東條と同様に磯谷とも思想が合わなかった。
石原が「中国人の信頼をを勝ち取れば、日支間の不和は春の日を受けた氷のように、解けさるでしょう」と言うと。
磯谷は「そんな詩のようなことを言ったってしょうがない。国家間の問題は力だよ」と言った。意見がことごとく食い違っていた。
石原は絶望し何も仕事をしなかったといわれる。というより仕事をさせられなかった。彼は東條など日中戦争を起こした連中に対する批判を公然と口にするようになった。
例えば、内地から人が尋ねてきたとき、司令官の官舎を指して、「泥棒の親分の住宅を見ろ。あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ。満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した」などとののしったと横山臣平は伝えている
関東軍に赴任した石原は、「独立国である満州国政治に関東軍が干渉主権侵害であるから、満人の政治的意思を尊重し、関東軍の内面指導を即時撤廃せよ」と植田謙吉関東軍司令官に意見書を提出した。
だが参謀長の東條英機はこの石原の意見書に反対した。石原に対する内面指導は強まる一方だった。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、満州国の農業政策大綱が決まり、農事合作社が設立される事になり、政府から実業部総務司長・岸信介、五十子巻三ら三人が関東軍司令部へ説明に出向いた。
東條参謀長、石原副長、片倉課長が応対した。五十子の説明が終わると、石原副長が「よくわかりました。制度としては結構です。ただし、これを実施するについては、全満一斉にやろうとなどと考えないで、最初はそれぞれ事情のちがうところ五、六ヶ所を選んで、試験的にやってみて、実施中に改善すべき所がでてきたら改善するという風でひろげていったらいかがでしょう」と言った。
五十子がなるほど大変いい注意だと思って感心していると、今度は東條が「五十子君」と呼んで何か言おうとした。
すると石原はそれを押さえるように「五十子さん、もうこれでいいです。この人は憲兵ですから、合作社のことなんかわからないのです。これで決定しました」と言って席を立った。
東條も苦笑しながら席を立った。ここまでくれば公然たる侮辱である。東條が苦笑以上の言動に出なかったのは、紳士としての自制心を持っていた。
だが、その紳士的な態度の裏で、東條は石原の官舎の周辺に憲兵を張り込ませていた。
これに良く似た話は数限りなくある。あるとき石原が執務していると、東條から用談があるから自分の部屋まで来てくれと、呼び出しが来た。
石原は使いの者に「こちらは用がないから、行かないと言ってくれ」と言ったそうである。
東條が陸軍次官に昇進して満州を去ったのは昭和13年5月で、その後、石原が参謀長になると予想されたが、一ヵ月後の6月に磯谷廉介中将が参謀長に決まり赴任してきた。
これは東條の決めた人事だったと言われている。東條は陸士1期上の磯谷とは親交があった。 結局、石原は東條と同様に磯谷とも思想が合わなかった。
石原が「中国人の信頼をを勝ち取れば、日支間の不和は春の日を受けた氷のように、解けさるでしょう」と言うと。
磯谷は「そんな詩のようなことを言ったってしょうがない。国家間の問題は力だよ」と言った。意見がことごとく食い違っていた。
石原は絶望し何も仕事をしなかったといわれる。というより仕事をさせられなかった。彼は東條など日中戦争を起こした連中に対する批判を公然と口にするようになった。
例えば、内地から人が尋ねてきたとき、司令官の官舎を指して、「泥棒の親分の住宅を見ろ。あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ。満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した」などとののしったと横山臣平は伝えている