陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

18.石原莞爾陸軍中将(8) 宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった

2006年07月21日 | 石原莞爾陸軍中将
昭和12年1月24日、宇垣一成陸軍大将は天皇から「内閣の組閣を命ず。組閣の自信ありや」との言葉を賜り、しばらくの猶予を願って退下した。だが陸軍部内では、宇垣の首班に反対が大勢であった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、石原作戦部長代理は参謀本部の部長・課長を除く中・少佐を部長室に集め、宇垣の三月事件の嫌疑と、軍縮を断行した前歴に国防問題をからめ、宇垣の総理就任に反対する大演説を行った。若手幕僚はほとんどこれに同調した。

 また、陸相官邸では、寺内陸相、梅津次官、阿南兵務局長、磯谷軍務局長、石原作戦部長代理、中島憲兵司令官、佐藤賢了政策班長らが集まって、宇垣首班の是非について大評定が始った。

 この席でも石原は、宇垣排斥論を圧倒的に論じた。寺内も梅津もあまりしゃべらずに、聞いていたという。結局一同これに和して宇垣排斥の方針が決まった。

 こうして、宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった。天皇の裁可を受けながら首相になれなかった宇垣は、公表された「宇垣日記」に次のように記している。

 「石原莞爾あたりが急先鋒になって、二・二六事件があって、その裁判がまだ済まぬ前に、陸軍の長老である宇垣が出るというのはけしからぬ、と云うらしいが、これは一寸ロジックに合わない」

 「天子様が出ろと仰ったのに、あそこらで、出ることはいかぬ、と云うのは、おかしなことだ」

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件で、日華事変が勃発した。石原の「世界最終戦争論」に反する現実となった日華事変であった。

 当時参謀本部第1部長(作戦)の石原少将は早期終結を望み、近衛首相に不拡大方針を進言、これに同意させた。

 だが、東條英機ら統制派により、石原の不拡大方針は、失敗した。石原は参謀本部第一部長でありながら、孤立無援に陥ったのである。

 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、戦争に反対する石原は右翼からも狙われ、生命の危険があった。石原は「俺は右翼に金をやらないから、きらわれるよ」とよく言っていた。

 だが、石原は左翼には好意と理解を見せていたと言う。社会主義を嫌う軍人社会で石原が孤立するのは当然の成り行きだったと言える。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)によると、2・26事件後の粛軍時代に参謀本部と陸軍省の実質的協力者として梅津次官と石原作戦課長は協力し合い、宇垣内閣を共同歩調で流産させたところまでは強調的であった。

 やがて林内閣の組閣で対立的立場となり、近衛内閣のとき勃発した日華事変の対処方針で梅津、石原が腹の底から強調できなかったことが、あの事変の悲劇的発展に至った。

 稲田正純氏(後の陸軍中将)によると終戦時の参謀次長で、当時石原の下で戦争指導課長であった河部虎四郎は石原を評して「関東軍あたりをやらせれば立派なものだが、中央で人をまとめて使う事は出来ない人である」と言っていたという。

 ところが梅津は君子で有能な町尻軍務局長と政務に関する権限で論争、対立し、町尻を異動させた。梅津は後任に中村明人を据えたが、これから以後石原の独走態勢になったという。

 梅津次官は石原少将について次のように評価している。

 「満州事変の全責任者は石原である。石原が軍鉄破壊の責任を自覚することなく、却って軍の指導権を掌握しようとの野心があると思われる。満州建国の功罪は別として、それは歴史の審判にまかせるべきであって、現実の問題としては、石原は自発的に軍職を辞すべきではなかろうか」と。