「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和11年2月26日に起こった2.26事件時、参謀本部作戦課長の石原は反乱軍兵士の制止を振り切って陸軍省を抜け参謀本部に登庁した。
その後を追ってきた2.26事件を引き起こした決起将校の山本又中尉が石原に追いつくと、石原に対して合掌し「石原大佐殿、御縁があります」と拝んで去って行った。
実は山本中尉は石原を射殺する役目だったのだが、石原と同じ日蓮宗の山本が初めて石原を見てその堂々とした態度に圧倒され、殺意を失った。石原はここで死ぬはずだったのである。
もう一つ死にかかった話。川島陸軍大臣が決起将校に取り囲まれて要求を突きつけられている部屋に石原大佐が入ってきた。
すると決起将校の栗原中尉が石原に「大佐殿のお考えと、私共の考えは根本的に違うように思うが、維新に対していかなる考えをお持ちですか」と聞いた。
石原は「僕はよく分からん。僕のは軍備を充実すれば、昭和維新になるというのだ」と言った。
栗原中尉はピストルに手をかけたが、磯部が黙っているので、そのままにして殺さなかったという。ここでも石原は死ななかった。
石原が上官に面と向かって「バカ大将」と言い放った有名な事件は2.26事件の時である。
「バカ大将」と言われたのは当時、決起した青年将校の信望を集めていた教育総監真崎甚三郎大将のことである。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和7年、満州事変に輝く花形的存在の石原が関東軍作戦主任から東京の兵器本廠付きに転任になり当時の真崎甚三郎参謀次長に挨拶に行ったときの話がある。
真崎が「石原君、貴公はえらいそ。君をどこにもっていくかが決まらなくて軍の定期異動が1週間も遅れた。たかが中佐のひとりの人事でこんなに遅れたのは初めてだ。君は大物になるぞ」と握手しようとした。
しかし石原は「陸軍長官の人事は三長官が決定されるもので、石原の関知するところではありません」と答えたという。
当時から青年将校を家に呼びご機嫌をとっていた真崎大将を軍の統制から石原は困った人だと思っていた。
2.26事件で、天皇の言葉により「鎮圧」の方針が決まると、2月27日には戒厳令がしかれ、石原は戒厳司令部の参謀に任命された。
ところが戒厳司令部に真崎大将が頻繁に出入りして、同じ皇道派の香椎浩平中将に圧力をかけていた。
「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、その圧力をかける真崎大将を見て、たまりかねた石原は、満座の中で真崎をつかまえ、「あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でするようになる」と直言した。
真崎大将は激怒し「上官に対しバカ大将とは何ごとか。軍紀をなんと心得るか」と石原を叱りつけた。
石原は平然として、こう答えた。「あなたが軍紀を問題とするならば、単なる上官に対する無礼な発言よりも、それらの人々を殺害した者達を、真っ先に糾弾すべきではないですか」。
これには真崎も言葉を返せず、無念そうにその場を去っていったという。
その後を追ってきた2.26事件を引き起こした決起将校の山本又中尉が石原に追いつくと、石原に対して合掌し「石原大佐殿、御縁があります」と拝んで去って行った。
実は山本中尉は石原を射殺する役目だったのだが、石原と同じ日蓮宗の山本が初めて石原を見てその堂々とした態度に圧倒され、殺意を失った。石原はここで死ぬはずだったのである。
もう一つ死にかかった話。川島陸軍大臣が決起将校に取り囲まれて要求を突きつけられている部屋に石原大佐が入ってきた。
すると決起将校の栗原中尉が石原に「大佐殿のお考えと、私共の考えは根本的に違うように思うが、維新に対していかなる考えをお持ちですか」と聞いた。
石原は「僕はよく分からん。僕のは軍備を充実すれば、昭和維新になるというのだ」と言った。
栗原中尉はピストルに手をかけたが、磯部が黙っているので、そのままにして殺さなかったという。ここでも石原は死ななかった。
石原が上官に面と向かって「バカ大将」と言い放った有名な事件は2.26事件の時である。
「バカ大将」と言われたのは当時、決起した青年将校の信望を集めていた教育総監真崎甚三郎大将のことである。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和7年、満州事変に輝く花形的存在の石原が関東軍作戦主任から東京の兵器本廠付きに転任になり当時の真崎甚三郎参謀次長に挨拶に行ったときの話がある。
真崎が「石原君、貴公はえらいそ。君をどこにもっていくかが決まらなくて軍の定期異動が1週間も遅れた。たかが中佐のひとりの人事でこんなに遅れたのは初めてだ。君は大物になるぞ」と握手しようとした。
しかし石原は「陸軍長官の人事は三長官が決定されるもので、石原の関知するところではありません」と答えたという。
当時から青年将校を家に呼びご機嫌をとっていた真崎大将を軍の統制から石原は困った人だと思っていた。
2.26事件で、天皇の言葉により「鎮圧」の方針が決まると、2月27日には戒厳令がしかれ、石原は戒厳司令部の参謀に任命された。
ところが戒厳司令部に真崎大将が頻繁に出入りして、同じ皇道派の香椎浩平中将に圧力をかけていた。
「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、その圧力をかける真崎大将を見て、たまりかねた石原は、満座の中で真崎をつかまえ、「あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でするようになる」と直言した。
真崎大将は激怒し「上官に対しバカ大将とは何ごとか。軍紀をなんと心得るか」と石原を叱りつけた。
石原は平然として、こう答えた。「あなたが軍紀を問題とするならば、単なる上官に対する無礼な発言よりも、それらの人々を殺害した者達を、真っ先に糾弾すべきではないですか」。
これには真崎も言葉を返せず、無念そうにその場を去っていったという。