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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

490.東郷平八郎元帥海軍大将(30)そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ

2015年08月14日 | 東郷平八郎元帥
 皇太子(昭和天皇)の教育を受け持つことになった東宮御学問所は、東郷平八郎元帥が総裁になった大正三年五月から高輪の東宮御所内でスタートした。

 始業式で東郷元帥は直立不動で、「殿下には、ますますご健全に、御学事に精励あそばさんことを乞い願いたてまつる」と震え声であいさつした。その時、六十六歳。昭和天皇は十三歳の少年だったが、すでに陸海軍少尉に任官していた。

 東大、学習院教授らが御用掛(教師)となって、倫理、歴史、地理、国文、武術、軍事など多数の科目が実施された。

 帝王学の徳育倫理担当は杉浦重剛(すぎうら・しげたけ=じゅうごう・滋賀県大津市・藩校遵義堂・大学南校・文部省派遣英国留学・文部省・東京大学勤務・東大予備門校長・東京英語学校創立者の一人・読売・朝日新聞の社説担当・衆議院議員・東京文学院設立・國學院学監・東亜同文書院院長・東宮御学問所御用掛・摂政宮=昭和天皇御進講役)が選ばれた。

 杉浦の帝王学は「三種の神器」「五箇条御誓文」「教育勅語」を柱に進講した。杉浦は後に皇太子の結婚をめぐる「宮中某重大事件」で妃殿下の家系に色盲色弱の可能性があるとして、ご婚約取り消しの動きがあった時、「綸言汗の如し」と辞表をたたきつけた。

 「君主の言は汗のように一度出たら引っ込まない」という杉浦倫理学で、「いったん成立した婚約を破棄するのは人倫にもとり、私の教えた倫理は破たんする」というのだった。

 病気の東郷元帥に代わって御学問所幹事の小笠原長生が杉浦をなだめ、結局大正十年二月十日、内務省は「東宮妃内定に変更なし」と発表した。

 宮内大臣・中村雄次郎(なかむら・ゆうじろう・三重県津市・フランス留学・陸軍中尉・陸軍大学校教授心得・士官学校教官・砲兵少佐・陸軍大学校教授・参謀本部陸軍部第一局第一課長・砲兵中佐・軍務局砲兵事務課長・大佐・軍務局砲兵課長・軍務局第一軍事課長・兼砲兵会議議長・少将・陸軍士官学校校長・陸軍次官・陸軍総務長官・軍務局長・中将・予備役・製鉄所長官・貴族院勅選議員・男爵・南満州鉄道総裁・関東都督・宮内大臣・枢密院顧問)が引責辞任して一件落着した。

 翌日の新聞にはじめて、「某重大事件」の記事が現れ、「お健やかに御機嫌麗はし」の見出しで、当時流行の「二百三高地」型ヘアスタイルの良子女王(後の昭和天皇皇后)の写真が掲載された。

 冬の間、沼津御用邸での講義には、東郷元帥は必ず出かけた。進講者によっては多少意見も異なるので、自分も一緒に同席して講義を聞いた。

 進講が終わると、近くの定宿「三島館」に泊まった。杉浦らも一緒だった。ある日、東郷元帥と杉浦が二人そろって松林の中の道をトボトボと宿へ帰った。直ぐ後を小笠原長生がついていた。どんな天下国家の話をしているのだろうかと、小笠原は聞き耳を立てた。それは次のようなものだった。

 東郷「杉浦さん、あなたはパイというものは好きですか」。

 杉浦「食べないことはありませんが」。

 東郷「あの、パイというものは作り方が大変難しくて、パイが一通り作れるようになると一人前の料理人だそうですよ」。

 杉浦「そうですかね。私はパイを食べても、そんなにうまいものとは思いませんが」。

 東郷「いやそうじゃありませんよ。よくできているのは、なかなかうまいものです」。

 それから、東郷元帥がパイの作り方の講釈を始めた。

 杉浦「そんなものですか。しかし、私はやっぱり玉露で藤村の羊かんを食べた方がいいです」。

 東郷「そうですかね。しかし、パイも捨てたものじゃないですよ」。

 二人はまるで子供のように夢中になって食べ物の話をしていたのだ。「元帥や帝王学の先生といっても、堅苦しい話ばかりではなかった」と小笠原は述べている。

 東宮御学問所で教務主任だった白鳥庫吉(しらとり・くらきち・千葉県茂原市・千葉中学・一高・東京大学文科大学史学科卒・学習院教授・東京帝国大学文科大学史学科教授・東宮御学問所御用掛・文学博士・帝国学士院会員・「東洋学報」創刊・東洋文庫設立・理事長)は東郷元帥死去に際して次のように語っている。

 「ご教育の大方針を決める時集まって協議したが、東郷さんは自分の意見を述べられるような方ではなかった。黙ってみんなの意見を聞き、一致するところをつかんで決められた。だから異論はなかった。自宅に伺うとじゅんじゅんとして話され、指導もされたので、どこまでも黙っている人ではない」(昭和九年五月三十日、朝日新聞)。

489.東郷平八郎元帥海軍大将(29)てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった

2015年08月07日 | 東郷平八郎元帥
 東郷大将は大勲位代表として御供申し上げた。桃山御陵斂葬の御儀は十五日午前五時に執り行われ、諸式もすべて滞りなく終わったので、東郷大将は即日帰京の途に就いた。

 東郷大将が乃木大将夫妻の殉死を耳にしたのは、この御供奉の途中であったが、他の供奉員たちが愕然として色めき立つ中を、東郷大将は静かにうなずき、瞑目しただけで、何事もなかったかのように平然としていた。

 東郷大将には、”来るべきものが来た”という感じしかなかった。しかし、乃木大将の死を最も悲しみ、同時に最も喜んでやっていたのも、東郷大将であった。

 九月十六日の午前中、東郷大将は海軍大将の正装で乃木邸を訪問し、恭しく夫妻の霊前に深く頭を垂れた。

 東郷大将は乃木大将の歌を詠んだ。それは次のようなものであった。乃木大将としては百万の読経よりも嬉しいものであったに違いない。

 「見るにつけ聞くにつけてもたゞ君の 真心のみぞしのばれにける」。

 大正二年四月二十一日、軍事参議官であった東郷平八郎海軍大将は、「元帥府ニ列セラレ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ」と、元帥の称号を受けた。この時、東郷大将は六十六歳、海軍生活四十四年目だった。

 元帥というのは軍事上の最高顧問で、陸海軍大将の中から「老功卓抜、尊敬信頼される人」が選ばれた。軍人としては最高の地位で、生涯現役として処遇された。宮中の席次も大臣と同列だった。

 ちなみに、昭和九年五月、東郷元帥が死去の際、「時の話題」として、「元帥」について新聞に次のような記事が掲載された。

 「明治五年、西郷隆盛が元帥に任ぜられたが、これは当時の官制で大将の上役にあるものを元帥に任じたもので、今日のいわゆる元帥とは事情を異にしている。今の元帥は明治三十一年一月二十日、軍務に関する最高顧問機関として元帥府が設けられ、陸海軍大将の中から「老功卓抜」なるものを選び、これを列せしむるとの詔勅が出され、同時に元帥府条例が発布されたのに基づいている」

 「この元帥府条例は、その後大正七年八月に改正されたが、その要旨は、一、元帥府に列せられる陸海軍大将は特に元帥の称号を賜う。一、元帥府は軍事上の最高顧問とす。一、元帥は勅を奉じて陸海軍の検閲をおこなうことがある。一、元帥には元帥佩刀及び元帥徽章を賜う」

 「この元帥府条例が発布されてから(昭和九年五月までに)元帥府に列せられたのは陸軍十四人、海軍十人の計二十四人。うち八人が皇族、十六人が一般軍人である。病が危篤になって特に元帥府に列せられる者もいたが、東郷の二十二年間は最古参である」

 「一般の軍人は大将になっても定年があるが、元帥府に列せられると生涯現役として待遇され、終身その栄誉をになう。だから真に武人の典型で軍の内外から尊敬信頼の的となる陸海軍大将中のいわゆる「老功卓抜」の士でなければならない」

 「元帥には刀と徽章を賜るが、元帥佩刀は黄金作りで柄の長さは五寸五分、鞘の長さ二尺六寸、金銀線入りの紫革の円紐のついたものである。副官として佐尉官各一名を常時付けるなど軍人最高の優遇を与えられている」。

 東郷元帥の夫婦仲は睦まじかった。乃木大将が妻の静子に対して表向きには愛情を見せまいとしたのとはまるきり反対で、他人が見ていても羨ましいほどの愛情を東郷元帥はむき出しにした。

 東郷元帥は妻のてつ子とよく碁を打った。ことに閑職になってからはよく打った。東郷邸に出入りして、東郷元帥に愛され、碁の相手をよくしていた近所の人で阿部真造という人がいた。

 阿部がある日、東郷邸に伺って見ると、東郷元帥はてつ子と碁を打っていた。「いま勝負がつくから……」と東郷元帥が言うので、傍で観戦していたが、まあ、どちらもザルの域を出ていない。

 そのうち、てつ子が見落としをして、継ぐべきところを、継がなかった。それを見るなり、間髪を入れずに東郷元帥はピシッとそこを切った。

 そうなっては大石が死にである。「アッ」と、てつ子が叫んで、「見落としよ、待ってちょうだい」と言った。東郷元帥はギョロリと大きな目玉を動かして、「待たぬ」と答えた。

 「だって、これは誰が見ても見落としじゃありませんか、待ってよ」とてつ子が言うと、東郷元帥は「戦争に待ったがあるか」と言った。「だって、ここを切られちゃ負けよ。だから……」「駄目だ」。

 散々言い合っているうちに、てつ子は本気に怒りだして、さっと顔色が変わった、かと思うと、ガラガラっと、盤上の石を引っ掻き回して、さっと立って行った。

 東郷元帥は、ふっと笑って阿部の顔を見て、パチパチと眼をしばたたかせた。阿部は、おかしくておかしくて、とうとう笑い転げてしまった。

488.東郷平八郎元帥海軍大将(28)東郷大将は「乃木さんは死ぬだろう」と考えた

2015年07月31日 | 東郷平八郎元帥
 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、英国ジョージ五世の戴冠式は明治四十四年六月二十二日午前七時四十分から、ウェストミンスター寺院で行われた。

 戴冠式の後、東郷大将と乃木大将は、馬車で宿舎のホテルに帰ったが、途中群衆に囲まれ、「ヒーロー」「オオ、トーゴ―」などと叫び、帽子を振り、ハンカチを振って、群衆が歓呼した。

 翌二十三日のグレー外相主催の晩さん会にも、東郷大将と乃木大将は特別に招待され、多数の出席者から歓迎され、人気の的だった。

 だが、東郷大将に向かって、ものを聞くのは、あたかも鎌倉の大仏に向かって聞くようなもので、無口の日本人の中でも、彼はその最たるものだった。

 ところが、六月三十日、東郷大将が四十年前に学んだ帆船ウースター号を訪れた後、プリンスホテルで開かれた旧友やOBによるウースター協会の歓迎晩さん会の席で、東郷大将は、珍しく長い演説を、しかも英語でやってのけた。演説の内容は次の通り(要旨抜粋)。

 「閣下ならびに諸君、ウースターは私にとって、この上なく懐かしい名です。ウースターは過去四十年間、私がいつも忘れることが出来なかったものです。…(略)…そして懐かしい諸君とお目にかかることが出来たのは、私にとって愉快の極みです」

 「…(略)…ここに私たちの全てを結びつける一つの共通の絆があります。すなわち、ウースターがこれです。(拍手)私は今夕ここで諸君にお目にかかって、ちょうど青年時代の親友に際会再会したような気がして、わたしの感想は、知らず知らず過去をたどり、ここにおられる若干の諸君と共にウースターの甲板上で、結索節のやり方を習った当時のことを思い出させます。(拍手)」

 「同時に私の記憶の中に、スミス大佐の温容が思い起こされます。教師の中で最も親切で最も仁慈な方でした。最近の戦争中、彼は度々私に親切な手紙をくれました。第二の故郷である英国からのこの手紙は、私に対し実に多大の慰めと激励を与えてくれました。…(略)…」

 「スミス夫人と再会できたことを喜ぶと共に、スミス大佐が私の英国に来るのを待たずに逝去され、私に与えられた過去の温情に対し、親しくお目にかかってお礼を申し上げる機会がなくなったことを、極めて残念に思います。…(略)…ウースター協会よ。ねがわくは永久に栄えあれ!」。

 大拍手だった。翌日の新聞は、東郷大将の演説を「天下の奇跡」と伝えた。しかし、英国陸軍の重鎮で沈黙将軍として知られる、キチナー元帥は、東郷大将に次のように言った。「お気を付けなさらないと、“沈黙提督”の名にかかわりますぞ」。

 英国での戴冠式行事が終わると、東郷大将はアメリカ経由で帰国することにした。だが、乃木大将はヨーロッパを視察して帰ることにした。

 この時、乃木大将は「ついでに、ロシアの片田舎でひっそり暮らしている、敵将ステッセル将軍を慰めてやってから帰りたいのだが、どうだろう」と東郷大将に相談した。

 東郷大将は、思案していたが、「それは止められたほうがよかろう。御身にはせっかくのご親切であるが、先方にとっては、かえって、それが苦痛となるかも知れないから」と言った。

 乃木大将は、日露戦争でお互い悪戦苦闘して共に戦って敗れた敵将を、一目会って、慰めてやりたいという気持であった。

 だが、ロシア国民はまだ日露戦争の屈辱を忘れてはいない。ステッセル将軍は、その天王山の旅順攻防戦で乃木大将に敗れた将軍だ。そのステッセルに勝者の乃木大将が会いに行けば、ステッセル将軍に恥をかかせることになる。

 このような判断から、東郷大将は、乃木大将を引き止めたのだが、それでも、なお、乃木大将は、ステッセル将軍に会いに行く決意を撤回しなかった。だが、さらに思案の末、最終的に、東郷大将の忠告に従ったと言われている。

 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。

 御大喪に際して、東郷大将は霊柩供奉の役を仰せつかった。東郷大将と乃木大将が最後に逢ったのは九月十三日の午前中、殯宮を排して退ってきた折りだった。

 お互いに忙しい身なので長い話も交わさなかったが、東郷大将は乃木大将を一目見た瞬間に、乃木大将の決意を読み取った。いや、そうではない。東郷大将が乃木大将の心を悟ったのはそのずっと以前だから、この瞬間に確信したと言った方が良い。

 明治天皇が崩御されたとき、東郷大将は「乃木さんは死ぬだろう」と考えた。その考えが間違っていなかったことを、東郷大将はこの瞬間に知ったのだ。

 だが、そのことについて東郷大将は一言も触れなかった。肝胆相照らし、尊敬する良き友の最期を本人の望むがままに、立派なものにしてやりたいと思っていた。

 「お役目ご苦労様です」「閣下こそ、ご苦労様です」。二人は同じように挨拶した。そして「いろいろと御配慮ありがとう存じます」と乃木大将が言うと、「こちらこそ、ではお静かに……」と東郷大将は答えた。

 そう言って別れた二人だが、二人の心はしっかりと通じ合っていた。十三日の夜、東郷大将は他の供奉員とともに霊轜を守護し、宮城を後に青山葬場殿に行った。

487.東郷平八郎元帥海軍大将(27)両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけ

2015年07月24日 | 東郷平八郎元帥
 明治四十二年十二月、東郷平八郎大将は海軍軍令部長を免ぜられ、軍事参議官に補された。当時軍事参議官には、乃木希典陸軍大将もいた。

 明治四十四年四月、東郷大将と乃木大将は、イギリスのジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや・よりひとしんのう・皇族・フランスのブレスト海軍兵学校卒・防護巡洋艦「松島」分隊長・少佐・甲鉄艦「扶桑」副長・海軍大学校臨時講習員・中佐・海軍大学校選科学生・防護巡洋艦「千歳」副長・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・死去・元帥・功三級・大勲位菊花章頸飾)と同妃に随行する機会が与えられた。

 そのとき、懸念されたのは、東郷大将も乃木大将も随行時は軍服でなく平服を着用しなければならなかったことである。東郷大将はとりたてて問題はなかったが、一徹な乃木大将は普段から軍服を離す事は無かったのである。

 当時乃木大将は、学習院長として常に学習院に起居し、就寝の時以外は軍服を解いたことがなかった。その乃木大将が平服を着るかどうか周囲の者たちは心配していた。

 そこで副官の吉田豊彦(よしだ・とよひこ)陸軍砲兵中佐(鹿児島・第三高等学校中退・陸士五恩賜・砲工学校・中尉・砲工学校高等科六期恩賜・陸軍要塞砲兵射撃学校・ドイツ留学・砲兵大尉・要塞砲兵射撃学校教官・日露戦争・砲兵少佐・陸軍大臣秘書官・アメリカ出張・陸軍重砲兵射撃学校教導大隊長・陸軍大臣秘書官・砲兵中佐・軍務局課員・イギリス出張・砲兵大佐・陸軍省兵器局銃砲課長・兵器局工政課長・重砲射撃学校校長・少将・陸軍省兵器局長・中将・陸軍造兵廠長官・陸軍技術本部長・大将・退役・日本製鉄取締役・満州電業社長・機械化国防協会長・勲一等旭日大綬章・功四級)が、乃木大将に次のように恐る恐る訊ねた。

 「院長閣下、渡英の際の服装の準備をいたしましょうか?」。

 すると、乃木大将はこともなげに、「いや、もう三越に注文してある。一切服は、東郷閣下が作られる通りのものを作るように頼んでおいたよ」と答えた。これには吉田中佐も意表をつかれたが、同時にほっとした。

 明治四十四年四月十二日、東伏見宮、東郷大将、乃木大将ら一行を乗せた日本郵船の客船「賀茂丸」(八五〇〇トン)は、横浜を出港し遠洋航路の旅に出た。

 当時六十四歳の東郷大将は六十二歳の乃木大将より二歳年長だった。このため、乃木大将はことごとく東郷大将に弟事し、その意見を聞き、それに従ったという。

 船内での晩さん会の時、東郷大将も大分杯をあげ、「お進みなさい」と言っては、周囲の人々に杯をすすめた。「もっと飲め」というのである。この言葉が東郷大将の口から出ると、人々は面白がった。たちまちこの言葉が船中での流行語になったという。

 「乃木と東郷」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、四月二十日、「賀茂丸」は上海に寄港した。東郷大将と乃木大将は、上海居留地の邦人小学校に招かれて見学し、記念として楓の樹を植えた。そのあとで、職員一同と記念写真を撮影することになった。

 乃木大将は背広姿だったので、これで写真に写るのかと思うと、やや躊躇された。彼一人なら断るところだったが、東郷大将が、「乃木さん、ここへ」と自分の隣の椅子を示したので、乃木大将は仕方なく着席した。

 着席したものの、乃木大将は、恥ずかしくてたまらないので、うつむいてしまう。写真家が「恐れ入りますが、乃木閣下、もう少しお顔を……」と言っても眼を伏せる。

 あとで、東郷大将が冷やかすように「乃木さんな……眠っておりはせなんだなぁ……」と言った。

 上海から香港、そしてシンガポールまでは東郷大将と乃木大将はそれぞれ一室があてがわれていたが、シンガポールから先約の客が乗り込んで来たので、東郷大将と乃木大将は一室で起居することになった。

 二人の仲は極めてよく、また礼儀正しく、さすがに偉人の付き合いとはこんなものかと同船の人々を感嘆せしめた。

 両大将は時には両殿下の相手となってデッキゴルフに興じたりしたが、多くは室にこもって黙々と読書した。東郷大将は主として英書を、そして乃木大将は漢書を紐解いた。

 乃木大将の早起きは有名で、毎朝一等運転士が甲板に出る時には既に乃木大将は散歩していて、「お早う」と声をかけた。

 乃木大将と東郷大将は、よく二人並んで甲板を散歩したが、乃木大将は常に東郷大将を先輩として敬い、散歩するにもいつも東郷大将の左側を歩くことを忘れなかった。

 何事も東郷大将を先に立てて、東郷大将の意見を聞き、時には労わる様子さえ見えた。白髪白髭の両紳士が互いにゆずり合い、尊敬しあって親しむ様は美しいものであった。

 また、両大将はよく烏鷺を戦わせたが、どちらも上手というのではないが、乃木大将の方が少し上だった。こうした有様を特派員として「賀茂丸」に乗っていたロンドン発刊の「デーリー・エクスプレス」記者は、次のように報道した。

 「賀茂丸の航海中、東郷、乃木、両大将が一つづり音以上の言葉を発したのを聞いた者はいなかった。二人の無言は大事業によって真価を測るべき人士の無言なり。時折両大将を知れる乗客が天候などについて話しかけることがあったが、両大将は、うなずくか、首を振るかで一言も発しない」

 「二人はいつも離れることなく、日本の戦戯である囲碁を喫煙室で戦わしていたが、終日戦っていても両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけだった。時にはデッキゴルフを試みられる時もあったが、乃木大将が明らかに一言を発したのは、この時のみだった。それは大将が玉をはじきそこなった時である」。

486.東郷平八郎元帥海軍大将(26)これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた

2015年07月17日 | 東郷平八郎元帥
 この文面が小笠原少将の胸にカチリときた。とても書く気になれなかった。依頼するには依頼する法がある。この依頼主は自分を何様だと思っているのだろうか。

 小笠原少将は届いた箱の包みも解かないで、無言でそれを送り返した。すると彼はまた性懲りもなく、それを送り返してきた。小笠原少将もまた意地になって、それを彼に送り付けた。

 こんなやり取りが数回続いた。すると彼はやけになって次のような手紙を送り付けて来た。

 「どうしても君が書いてくれないのなら、当方にも考えがある。返された包みの中に君の手で姓名が書いたものがあるから、それを切り取って証明に当てるから、覚悟願いたい」。

 これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた。これで彼は溜飲を下げたつもりであっただろう。あまりに身勝手な言い分なので、小笠原少将はそれを黙殺した。

 しかし、それでも小笠原少将は腹の虫が納まらないので、東郷元帥についつい話してしまった。それを聞いた東郷元帥は小笠原少将に次のように訊ねた。

 「わしにはとうてい想像もできないことだ。そのような人間もいるものか。ところで、その書はわしの書いたものかな」。

 「それは分りかねます。その書を見ておりませんから」と小笠原少将が答えると、東郷元帥は苦笑して「それではいくら子爵でも、箱書きの書きようがないではないか」と言った。

 また、当時の一新聞は、東郷家の表札について、特ダネとして次のような記事を掲載した。

 「東郷と書いてある表札は何時見ても新しく、……その理由は頗る振ったものである。何事にも几帳面な元帥は『自分の表札は自分で書くべきで、他人に書かしたくない』というて、いつも武張った直筆を揮(ふる)うのだ」

 「それを伝え聞いた悪戯者は、元帥の真筆を手に入れるのはこの時と許り、間がな日がな狙いをつけて無遠慮に引き剥がし持ち行くので、堅固に五寸釘で打ち付けて置いても禦ぎ得ず、一週間位には大抵新しく替えられて居、今では同邸にては同じような表札を幾枚も用意して置き、それッと何時でも元帥が筆を下し得るようにしているそうな」。

 この記事の真偽のほどは分らない。だが、一時東郷家の表札がなかったことは事実である。それに気づいて小笠原少将は東郷元帥に「最近御門の表札が見えませんが……」と言った。

 すると東郷元帥は「それがよく無くなるんだ」と答えた。小笠原少将が「警察は何とも言って来ませんか」と聞くと、「いや、別に何とも言うてこんよ」と東郷元帥は言った。東郷元帥はこのことを警察に届けなかった。

 だが、東郷元帥は、このことに懲りて、もう自筆を揮わなくなった。そうなると、世間は敏感なものである。それ以来というもの、はたと表札の剥ぎ取りが後を絶った。

 その次は、今度は東郷家の「小石拾い」と「水貰い」が始まった。「小石拾い」とは、文字通り、東郷邸の小石を記念に持ち去ることである。中には邸内の土を持ち帰る者もいた。

 その一人で、刀鍛冶と称する者は、名刀を作り上げるために焼刃に使う土の中に入れて聖将の武徳にあずかるのだと言った。それで厄介なのは、彼らがいちいち玄関に取次ぎを求め、東郷元帥の承諾を得た上で持ち帰ったことである。

 これには東郷元帥もいささかあきれ、面倒くさくもあって、「一つ二つなら、わざわざ断るまでもない。勝手に拾っていかれるがよい」と言った。

 ところが、彼らにとっては、そうはいかぬ事情があるらしかった。律義というか何というか、彼らは口々に「それはできませぬ。閣下のお許しがあって、はじめて有難味が出ます」と言った。これには、「そういうものか」と東郷元帥も唖然としてあごを撫でたという。

 また、「水貰い」は、東郷邸の井戸の水を、用意したビンに入れて持ち帰ることである。彼らもいちいちそれを東郷元帥まで断りを入れた。

 ある日、佐渡島の両津の者が訪ねて来て、三本のビンを持ち込み、東郷元帥に次のように言って、井戸水をねだった。

 「これは飲むためではありません。一本は神棚に供えます。二本目は田畑に、三本目は梅の木に注ぎます」。

 東郷元帥は慣れっこになっていたので「こんな水でよければいつでも……、佐渡との往き帰りは難儀じゃのう」と言って応じた。

 ところが、それから間もなく、両津に大火事があって、一面が焼け野原になった。その中にあって、彼の家だけは不思議と焼け残った。彼は早速このことを東郷元帥に報告し感謝して来て、「これひとえに、元帥閣下の神水のいたらしめるところである」と言ったという。

485.東郷平八郎元帥海軍大将(25)閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるよう

2015年07月10日 | 東郷平八郎元帥
 それ位であるから、東郷大将はよく字を書いた。頼みに来た人によって、その人にマッチした内容の文章のものを選んでは書いた。その数も相当のものだった。

 東郷大将の伝記作者・小笠原長生(おがさわら・ながなり)中将(東京・老中小笠原長行の長男・子爵・海兵一四・海大丙種学生・軍令部諜報課員・少佐・防護巡洋艦「千代田」副長・軍令部参謀・日露戦争・中佐・大佐・学習院御用掛・装甲巡洋艦「常盤」艦長・戦艦「香取」艦長・東宮御学問所幹事・少将・中将・予備役・宮中顧問官・正二位・勲一等・功四級)は、後に「東郷元帥の書と言われるものは、内輪に見積もっても全国で二十万枚が散在する理屈だ」と言っている。

 だが、之には問題があった。その大部分が偽筆なのである。このことから、小笠原長生は、「世間に最も多くて、最も少ないのは東郷元帥の書であろう」とも言っている。ともかく偽作者は好んで東郷元帥の書を書いた。その結果また悲喜劇を生むことになった。

 明治三十九年頃、ある日東郷大将の偽筆を真筆と称し、売買しようとした男がつかまった。警察ではそれを直接東郷大将のもとに持参して真偽の鑑定を願い出た。

 東郷大将は一見してそれが偽筆と判った。東郷大将はそれをそのまま口にした。つかまった男は罪に問われた。これには東郷大将も後味が悪かった。

 小笠原長生海軍大佐が東郷大将のもとを訪れると、東郷大将を重い口を開き、次のように言った。

 「偽筆の売買でつかまった男な。あれの親父は水兵で「三笠」に乗っておったそうな。いっそのこと、あの書は、わしが書いたんじゃと言ってやればよかった。罪にならなくとも済んだじゃろうに。不憫なことをしたよ」。

 それを聞いた小笠原大佐は、きっとなって、「閣下、何をおっしゃられます。そんな横着者のいうことなんか、真に受けられますな。おそらく閣下の同情をひくために、でたらめを述べたのでしょう」と言った。

 東郷大将は「そういうものかの」と言うと、しっと考え込んでいた。東郷大将が自分の書に対して、決して真偽を言わなくなったのは、この事件以来だった。

 東郷大将から鑑定を得ることが出来ないことがいつしか世間に知られると、好事家たちは、たちまち小笠原長生大佐に白羽の矢を立てた。小笠原大佐は特別の才能で、よく東郷大将の書の真偽を見抜いた。それだけに小笠原大佐の箱書きや証明は彼らの間で高い評価を得ていた。

 ある時、小笠原大佐が東郷邸に顔を出すと、東郷大将は彼を待ち受けていて、小笠原大佐を客間に通すなり、東郷元帥はテーブルの上の一通の手紙を示して「それを読んでごらん」と言って笑った。

 差し出された手紙を見て、小笠原大佐もあきれ果てた。よくぞ書いたものである。罫紙二十数枚に、虫眼鏡を必要とするような細字でたんねんに紙一杯に書かれていた。

 読み進むうちに小笠原大佐は笑いがこみあげて来た。その手紙には、まず自分の祖先以来の系図を掲げ、それから自分の経歴、家族状況、所有財産が明示されていた。これが前書きである。そのあと本題の要旨は次のようなものであった。

 「自分はある人から東郷閣下の真筆を譲り受けた。ところが知人から小笠原長生子爵の箱書きがないと不十分と言われ、自分もその気になって再三手紙で子爵に交渉したが、子爵は一向に応じてくれない」

 「自分がこのように誠意を示しているのに、子爵のやり方は不埒至極である。よって厚かましいとは思いますが、閣下にこの次第を申し上げ、閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるようお願い申し上げます。恐惶謹言」。

 小笠原大佐が思わず、ぷっと吹き出すと、珍しく東郷大将もそれにつられて、大声で笑って、「不埒至極がよい。一つ命令するか」と言った。

 小笠原大佐も相槌を打って、「箱書きをいたしましょう。ただし、東郷閣下の筆跡、真偽不明。裏に不埒至極居士誌とでも書きますか」と答えた。

 東郷大将はますます機嫌がよく「子爵から箱書きをして貰ってくれという依頼は時々ある。しかし不埒至極というのは今度が初めてじゃ。無遠慮な奴じゃ。どっちが不埒至極かわからん」と言った。

 小笠原大佐が「しかし、罫紙二十数枚に書く根気は他に例がないでしょう。書いてやりましょうか」と言うと、東郷大将は「それは子爵の随意だ。わしは別段勧めはせんよ」と答えた。

 結局小笠原大佐は箱書きを書いてやらなかった。手紙の主は東郷大将と小笠原大佐のどちらを怨んだだろうか。

 大正四、五年頃、小笠原少将は、ある出来事を境にして、親族、知人以外には、箱書きを書かなくなった。その出来事とは、小笠原少将のもとに突然手紙と木箱を送り付けて来た者があったのだ。その手紙には高飛車に次のように記されていた。

 「私は東郷閣下の御書を譲り受けたが、閣下には箱書きをお書き下さると聞いている。よって閣下のお手許に郵送いたしましたので、なるべく速に御認め下されたく、もちろん閣下にも御異存のあるべきはずが無かるべく念のため一応申し添えます」。

484.東郷平八郎元帥海軍大将(24)我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず

2015年07月03日 | 東郷平八郎元帥
 バルチック艦隊が全滅したために、ロシア皇帝ニコライ二世は、ロシア国内に革命が起きそうな事情もあり、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの呼びかけに応じて、日本と講和をすることにした。

 アメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで、明治三十八年九月五日、日露講和条約が調印され、一年七か月に渡った日露戦争は幕を閉じた。条約の主な内容は次のようなものだった。

 ロシア軍は満州から撤兵する。旅順―長春間の東清鉄道と、ロシアが清から租借している遼東半島を日本に譲渡する。ロシアは、朝鮮における日本の優先的諸権益を認める。ロシアは、日本の日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨むロシア沿岸地域の漁業権を認める。

 賠償金はゼロだった。ロシアが、「賠償金を払うくらいなら、再び戦争を始めると主張したのに対して、日本は経済的にも陸軍力にも余裕がなく、しぶしぶ同意せざるを得なかった。

 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、日露戦争に日本が動員した兵力は総勢百八万八千人。戦死者四万六千人、戦病・負傷者十七万人、捕虜二千人にのぼった。

 失った艦艇は軍艦十二隻、輸送船五十四隻、ほかに水雷艇、閉塞船など。使った軍費は、陸軍が約十三億円、海軍が約二億四千万。他の費用も合わせて、日露戦争に二十億円近くの金が注ぎ込まれた。

 二十億円は、現在の貨幣価値にすれば二十兆円を超える巨額だった。当時の通常年間予算の八年分に相当し、国家収入のほとんどを使い果たし、足りない分は外国からの借金でまかなった。

 当時の桂太郎(かつら・たろう)首相(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・大将・総理大臣・日露戦争・総理大臣<第二次組閣>・総理大臣<第三次組閣>・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)は戦争終結後の、明治三十八年十二月二十八日総辞職した。

 司令長官・東郷平八郎大将の連合艦隊も、十二月二十日解散した。翌二十一日の連合艦隊解散式で、東郷大将は次のような解散の辞(訓示)を述べた(要旨)。

 「我が連合艦隊は今やその隊務を結了してここに解散することとなれり。然れども我ら海軍軍人の責務は決してこれがために軽減せるものにあらず。この戦役の収果を永遠に全うし、なお益々国運の隆昌を扶持せんには時の平戦を問わず、まず外衛に立つべき海軍が常にその武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す」

 「かくして武力なるものは艦船兵器等のみにあらずしてこれを活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず」

 「神功皇后三韓を征服し給いし以来韓国は四百余年間我が統理の下にありしも一たび海軍の廃頽するやたちまち之を失い、又近世に入り徳川幕府治平になれて兵備をおこたれば挙国米艦数隻の対応に苦しみ、露艦また千島樺太を覬覦(きゆ=うかがい、ねらう)するもこれと抗争すること能わざるに至れり」

 「神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人いわく、勝って兜の緒を締めよ」。

 東郷大将のこの訓示は、連合艦隊旗艦「三笠」艦上ではなく、戦艦「朝日」の艦上だった。戦艦「三笠」は佐世保に凱旋後、爆沈事故を起こし、沈没したためだった。

 明治三十八年九月十一日午前零時二十分、佐世保港十番ブイに繫がれていた戦艦「三笠」は、突然後部左舷主砲弾薬庫が爆発し、沈没した。

 この事故で、二百五十一名の殉職者を出した。爆発の原因は、水兵たちが発火信号用アルコールの飲用に際し、誤って引火し爆発したとの証言がある(松本善治中尉・大正元年)。

 明治三十八年十二月二十日、東郷平八郎大将は、連合艦隊司令長官を解任され、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・海軍大尉・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位菊花大綬章)のあとの軍令部長に就任した。

 この頃から、東郷平八郎大将に揮毫を依頼する者が多くなった。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷大将は元来、書道が好きだった。

 書道の手ほどきは、八歳の時に同郷の鹿児島城下、加治屋町の西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・鹿児島・薩摩藩下級藩士・御勘定所書役・番兵二番隊監軍・戊辰戦争で戦死・享年三十五歳)に受けた。

 ちなみに、西郷吉二郎は西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩下級藩士・郡方書役助(四十一石)・中御小姓(江戸詰)・御庭方役・徒目付・将軍継嗣で一橋慶喜擁立に動く・大老井伊直弼排斥を図る・僧月照と入水し月照は水死するも西郷は助かる・奄美大島に潜居・旧役に復し上京・沖永良部島に遠島・赦免され京都で島津藩の軍賦役(軍司令官)に任命される・禁門の変で長州勢を撃退・勝海舟と協議し長州と緩和・征長軍参謀・長州藩三家老処分・薩長同盟を誓約・薩土盟約・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・東征総督府下参謀・勝海舟と会談し江戸城無血開城・上野戦争・鹿児島藩大参事・常備隊五〇〇〇名を率いて上京・明治天皇・正三位に叙せられる・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論に敗れ帰郷・鹿児島県に私学校創設・西南戦争で敗れ城山で自刃・享年四十九歳)の弟だった。

 東郷平八郎大将は以来、書道の研鑽に励み、暇さえあれば艦内でも運筆を試していた。東郷大将は、筆が上達し、西郷吉二郎から誉められた言葉「仲五(平八郎の幼名)は字が巧か」、をいつまでも忘れなかった。

483.東郷平八郎元帥海軍大将(23)秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ

2015年06月26日 | 東郷平八郎元帥
 翌五月二十八日午前六時、ネボカトフ少将の指揮するロシアの補強艦隊は旗艦「ニコライ一世」(九五九四トン)以下五隻でウラジオストック目指して航行していた。だが、午前九時、東郷司令長官の指揮する連合艦隊二十七隻は、その補強艦隊をぐるりと包囲した。

 東郷司令長官の信号により、連合艦隊の巨砲が一斉に火を噴いた。ネボカトフ少将は、勝ち目はないとみて、即座に信号士官に命じて「ワレ降伏ス」の信号旗をマストに掲げさせた。

 だが東郷司令長官はかまわず砲撃を続けさせた。「ニコライ一世」に砲弾が降りそそいだ。東郷司令長官が一向に攻撃中止命令を出そうとしないので、参謀・秋山真之中佐は「長官、発砲を止めたらいかがですか? 降伏信号を掲げています」と進言した。

 双眼鏡で「ニコライ一世」を見つめ続けていた東郷司令長官は「敵艦は動いている」と答えた。秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ。両眼から涙を迸(ほとば)らせていた。敵艦の水兵たちは傷つき、吹っ飛んだりしていた。

 戦いが終われば敵も味方もないではないか。秋山中佐の涙は頬を勢いよく滑り落ちていた。東郷司令長官は秋山中佐の涙を見て、思わず涙ぐんだ。だが、公式には、艦の運動が完全に停止した時でなければ、降伏と認められなかったのだ。

 とうとうネボカトフ少将は「エンジン停止」と命じた。ようやく「ニコライ一世」は完全に停止した。東郷司令長官は発砲停止命令を出した。ネボカトフ少将率いる艦隊は降伏した。一隻は自沈した。

 五月二十八日午前、頭部を負傷したバルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、沈没寸前の旗艦「スワロフ」から駆逐艦「ブイニー」に移され、さらに駆逐艦「ベトビー」に移され、ウラジオストックに向かっていた。

 連合艦隊の駆逐艦「漣(さざなみ)」は「ベトビー」と遭遇し、砲撃を加えた。「ベトビー」は降伏した。ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ベトビー」は佐世保に曳航され、ロジェストヴェンスキー中将は佐世保の海軍病院に収容された。

 日本海海戦の全ての戦闘は、明治三十八年五月二十八日の夕刻、隠岐ノ島の西方海面での小戦闘を最後に、終了した。

 バルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、ロシア皇帝へ、知覚を失った後、艦隊の指揮権をネボガトフに委せた事情を、東郷司令長官を通じて打電した。ロシア皇帝からはフランス公使を通じて、次のような勅電が来た。

 「朕ハ卿及ヒ艦隊ノ全員カ露国及ヒ朕ノ為ニ戦闘ニ臨ミ身命ヲ抛(ナゲウ)チ其ノ任務ヲ尽シタルヲ深ク嘉ス帝ハ卿ニ名誉ノ戦勝ヲ冠スルニ至ラサリシモ卿等不朽ノ勇武ハ向後祖国ノ恒ニ誇トスル所トナルヘシ朕ハ卿カ速ニ全快センコトヲ望ム神ハ卿等ヲ慰藉セラルヘシ、ニコライ」。

 六月三日夕方、東郷司令長官は、秋山中佐を従え、花束を持って、海軍病院にロジェストヴェンスキー中将を、その病室に見舞った。通訳には山本大尉が当たった。

 ロジェストヴェンスキー中将は、頭に包帯を巻き、血の気の無くなった顔に、微笑をただよわせ、半身をベッドの上に起こして東郷司令長官に敬意を表した。東郷司令長官は、そのそばに進んで、ロジェストヴェンスキー中将と握手をして、次のように言った。

 「勝敗は軍人を志した者には常につきまとって離れないものです。敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います。要は本分を尽くしたかにかかっています。貴官は有史以来、前例のない一万数千海里に及ぶ航海を、大艦隊を引き連れて遠征して来られました。しかも今日の海戦で貴艦隊の将兵は、実によく勇戦され、感心しております」

 「貴官が重傷を負ってまで敢然として大任を尽くされたのに、小官は心から敬意を表します。当病院は俘虜収容所ではありません。諸事不自由でしょうが、どうか、自重自愛されて、一日も早く速やかに快癒されるよう祈ります」。

 山本大尉の通訳が終わると、ロジェストヴェンスキー中将は、感激して、もう一度、東郷司令長官に握手を求めた。そのあと、涙をこらえながら東郷司令長官に次のように言った。

 「私は名誉の高い貴官に敗れたことを恥としません。貴官の訪問を光栄に思います。貴官の温情は負傷の苦痛を忘れさせたほどです。感激で言葉もありません」。

 明治三十九年、帰国したロジェストヴェンスキー中将は、敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられた。意識を失っていた理由で無罪となったが、官位は剥奪された。その三年後、ロジェストヴェンスキー中将は、日本海海戦で受けた傷が原因で病死した。享年六十歳だった。

 「完全勝利の鉄則」(生出寿・徳間文庫)によると、日本海海戦でのバルチック艦隊三十八隻の損害は、沈没が、戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、仮装巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻の合計十九隻だった。

 また、捕獲されたのは、戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻の合計五隻。抑留は病院船二隻。自沈が巡洋艦一隻、駆逐艦一隻。巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、特務艦二隻はマニラや上海などの中立国に逃げ、武装を解除された。

 ウラジオストックに逃げ帰ったのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、特務艦一隻の四隻だけだった。

 戦死者は四五二四人で、日本海軍の捕虜になったのは、ロジェストヴェンスキー中将以下六一六八人で、ロシアのバルチック艦隊は壊滅した。

 これに対し日本海軍の連合艦隊の損害は、沈没が水雷艇三隻、戦死者一一六人、負傷者五七〇余人で、奇跡のような大勝利だった。

 日本海海戦は、イギリスの著名な戦史家、H・W・ウィルソンが、「ああ、これ何たる大勝利か、陸戦においても、海戦においても、歴史上未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない。実にこの海戦は、トラファルガー海戦と比較してもその規模、遥に大である」と感嘆するほどの空前の大勝利であった。

482.東郷平八郎元帥海軍大将(22)「緒戦に旗艦をたたけ」。これが東郷司令長官の鉄則だった

2015年06月19日 | 東郷平八郎元帥
 明治三十八年五月二十七日午後二時、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊は距離八千メートルに近づいた。バルチック艦隊は二列縦隊、連合艦隊は単縦隊だった。

 「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、午後二時八分頃、旗艦「三笠」(一五一四〇トン)の艦橋にいた東郷司令長官は、無言で右手を高く上げた。その手が動き、左方に大きく半円を描いた。

 すかさず参謀長の加藤友三郎少将が命令を伝えた。「艦長、取り舵一杯」。左へ百八十度回転せよというのである。これが海戦史に名高い「敵前大回頭」だった。

 これはこれまで前方からバルチック艦隊の右舷側に向かって接近してきたのに、急に敵艦隊の前方を横切ったのち、左百八十度回転して敵艦列の左舷に出て、そこから敵艦と同方向に並列して進む形となった。

 東郷司令長官のとろうとした戦法は「同(並)航戦」である。そのまま連合艦隊が進めば、「反航戦」になることは明らかだった。つまり反航戦はすれ違いに砲撃するから、戦闘時間も短く、敵に決定打を与えにくいという欠点があった。東郷司令長官のねらいは、あくまでも長時間砲撃で敵艦隊を壊滅させることにあったのだ。

 だが、同航戦となれば、自分の受ける損害も大きくなる。東郷司令長官は、それも覚悟の上だった。「肉を切らせて骨を断つ」ことができれば良し、と決断した。

 だが、東郷司令長官には、合理的な成算があった。第一には、バルチック艦隊の艦速が遅いという事だった。石炭の積み過ぎと、老朽艦が多かったのだ。

 第二には、東郷司令長官は連合艦隊の砲撃に絶大な信を置いていた。鎮海湾での訓練状況から見て、命中率の高さは満足できる水準に達していた。さらに、この日の日本海は波が高かった。このような条件下では、必ずその優劣が極立つのだ。

 ほぼ両艦隊が平行して航行するうち、敵味方の距離が六四〇〇メートルに達した時、「三笠」の右舷砲門が一斉に火を噴き、後続する諸艦隊もそれにならった。その標的は、旗艦「スワロフ」(一三五一六トン)と第二艦隊の旗艦「オスラービア」(一二六四七トン)だった。

 「緒戦に旗艦をたたけ」。これが東郷司令長官の鉄則だった。旗艦を失えば、敵は命令系統を欠き、全艦隊が統制ある攻撃に出ることが困難になるのだ。

 両艦隊の距離はますます縮まり、四六〇〇メートルの接近戦となると、連合艦隊の砲撃の命中率も一層高くなった。このことは東郷司令長官が常々口にしている「艦砲射撃は七〇〇〇メートル以内でこそ、その効果が発揮できる」を見事に実証した。

 日本海軍連合艦隊の最初の右舷一斉砲撃で、旗艦「スワロフ」の前方煙突の横に命中して、付近の者は全員戦死した。次の砲撃では、「スワロフ」の司令塔に命中して、司令官・ロジェストベンスキー中将と「スワロフ」の艦長が負傷した。その上、無電装置も破壊されて他艦との通信が不可能になった。

 「スワロフ」の艦上は至る所火の海につつまれ、この世の焦熱地獄を現出していた。これはロシア側では知らなかったが、日本海軍の下瀬火薬の威力だったのだ。この下瀬火薬を使用した砲弾は、敵艦上の何かに触れただけで爆発して凄まじい火焔を発した。

 第二艦隊の旗艦「オスラービア」も火災を起こした。火災はこの二艦だけに限らなかった。連合艦隊の撃ちだす砲弾は他の艦艇にも次々に命中し炸裂した。海戦が始まってから三十分後には、バルチック艦隊の主だった艦艇はことごとく火の海に包まれた。

 連合艦隊の艦砲の命中率は、すさまじいものだった。バルチック艦隊の陣形は大きく崩れ、四分五裂となった。もはや日本海軍連合艦隊の優位は明白となり、東郷司令長官もこのことをはっきり意識した。

 この頃から連合艦隊は砲弾を徹甲弾に切り替えた。この徹甲弾なら、敵艦体の厚い装甲も突き破ることができた。「スワロフ」の後部砲塔はこの徹甲弾二発の直撃を受けて爆発した。砲の一つはねじ曲がって上を向き、砲手全員が死傷した。

 第三弾は艦体の横腹喫水線に命中した。その大きな穴から海水が艦内に濁流のように流れ込んだ。第四弾は中甲板を貫き、第五弾はメーンマストを海に放り出し、煙突の一つがねじ曲がって倒れた。もう一つの煙突は穴だらけになり、基部には火が走っていた。第六弾は、操舵機をめり込ませ、自由に舵を切れなくなった。

 「オスラービア」も次々に被弾し、やがてひっくり返って艦底を見せると、数分とたたぬうちに波間に消えた。艦長はこの時艦と運命を共にした。海戦はなおも続いた。連合艦隊は砲撃の手をゆるめなかった。

 やがて日没を迎えると、午後七時十分、東郷司令長官は攻撃中止命令を出した。戦いは「スワロフ」「オスラービア」など七隻を沈没させた連合艦隊の圧倒的な勝利だった。

 さらに、その夜、連合艦隊の駆逐艦二十一隻、水雷艇四十隻による夜襲で、戦艦「ナワリン」、巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」は撃沈され、戦艦、巡洋艦など三隻が大破した。また、戦艦「モノマフ」と「シソイ・ベリキー」は対馬海峡で捕獲を免れるため自沈した。

481.東郷平八郎元帥海軍大将(21)我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ

2015年06月12日 | 東郷平八郎元帥
 日露戦争中、明治三十八年五月二十七日、二十八日に行われた日本海海戦は、東郷平八郎大将率いる日本海軍の連合艦隊と、ロジェストヴェンスキー中将が率いるロシア海軍のバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の間で行われた対馬沖海戦である。

 「連合艦隊」(吉田俊雄・秋田書店)によると、日本海海戦の前、内地出港直前に連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍中将は次の二人と面会した。

 海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)海軍中将(鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・首相・予備役・退役・首相・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)海軍大将(鹿児島市清水馬場町・江戸幕府の洋学教育学校「開成所」卒・勝海舟の神戸海軍操練所卒・薩英戦争・戊辰戦争・明治維新後海軍大尉・通報艦「春日」艦長・少佐・スループ「日進」艦長・中佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・横須賀鎮守府次官・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・第一局長・海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・大将・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 山本海軍大臣と伊東軍令部長は、東郷司令長官に対して、「日露の新建造艦の状況は日本が遥に有利である」と力説し、「我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ。あとは心配無用だ」と言って激励した。

 その激励は、東郷司令長官を勇気づけはした。だが、東郷司令長官は、そんなことで、離れわざみたいな投機的な戦をする軍人ではなかった。東郷司令長官は黄海海戦で次のようなデータを概略ではあるが、つかんでいたのである。

 「ロシアは、味方が三発撃つうちに、一発しか撃てない。つまり、射撃速度は味方の三分の一である。命中率は味方の三分の一にも達しない」

 「敵弾は命中しても大火災を起こす能力はない。弾丸の威力は、強烈な下瀬火薬を一四パーセントも填めている日本に対し、ロシア硝化綿火薬を二・五パーセントしか填めていない。その威力を加味した実効戦力は、ロシアは日本の十分の一に過ぎない」。

 さらに東郷司令長官は、「敵味方の距離八〇〇〇メートルでは、回頭中に受ける被害はゼロに等しい」と略算して、日本海海戦では、トーゴ―ターン(敵前大回頭)を断行して勝利に導いた。

 「合理的で、非投機的で、しかも堅実」であるのが、東郷司令長官の身上だった。だからこそ、大バクチに見えるトーゴ―ターンが、実は成功率一〇〇パーセントの、最も合理的な戦法だったのである。

 東郷司令長官は、その一〇〇パーセント成功の秘策を胸に、「いつ、どこで、それを実行するか」と、その時機を、じっと待っていたのだった。

 「勝負と決断」(生出寿・光人社)によると、明治三十八年五月二十七日午後一時三十九分、日本の連合艦隊は、対馬東水道で、左舷南方約一一〇〇〇メートルに、もやの中から現れて来たバルチック艦隊の艦影を認めた。

 旗艦「三笠」の露天艦橋で、東郷司令長官は、右手にツァイスの双眼鏡、左手に長剣を握り、身じろぎもせず、一言も口をきかず、敵艦隊を注視し続けた。

 午後一時四十五分バルチック艦隊は全容を現した。先任参謀・秋山真之中佐が東郷司令長官に近づき、「先刻の信号ととのいました。直ちに掲揚いたしますか」と訊ねた。東郷司令長官は肯いた。

 午後一時五十九分、黄、青、赤、黒の四色のZ旗が「三笠」の艦橋のすぐ後ろのマストに、強風にあおられながらひるがえった。これが有名な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」というZ旗だった。

 戦闘が開始されたのだ。秋山中佐が東郷司令長官に「司令塔の中に入ってください」と言った。司令塔は厚い鋼板でおおわれ、砲弾の弾片などは跳ね返すのだ。だが、東郷司令長官は「ここにいる」と答えた。

 副官・永田泰次郎(ながた・やすじろう)中佐(東京・海兵一五・六十三番・三等駆逐艦「薄雲」艦長・少佐・常備艦隊副官・中佐・連合艦隊副官・戦艦「石見」副長・第五駆逐隊司令・第一駆逐隊司令・大佐・巡洋戦艦「鞍馬」艦長・舞鶴鎮守府参謀長・戦艦「摂津」艦長・少将・第二艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・臨時南洋群島防備隊司令官・中将・予備役・神戸高等商船学校校長・功三級)も東郷司令長官に「中に入られるよう」頼んだ。

 さらに、参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)少将(広島市中区・海兵七・次席・海大甲号一・砲艦「筑紫」艦長・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・首相兼海軍大臣・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)も頼んだ。

 だが、東郷司令長官は「私は年を取っているからいい。ここにいる若い君たちはみんな、中に入れ」と言って、動かなかった。東郷司令長官は五十八歳だった。ちなみに参謀長・加藤少将は四十四歳、副官・永田中佐は三十九歳、先任参謀・秋山中佐は三十七歳だった。

 ちなみに、イギリスのホレーショ・ネルソン提督(ノーフォーク出身・十二歳で海軍入隊・少尉昇進試験に合格・二十歳で艦長・最先任艦長・地中海でフランス艦と初戦闘・コルシカ島で陸上戦闘を指揮し負傷・右目を失明・地中海艦隊戦隊司令官・スペインの戦闘艦二隻を拿捕しバス勲爵士を授与される・少将・テネリフェ島攻略に失敗・右腕を負傷切断・ナポレオンのフランス艦隊を撃滅・男爵・青色艦隊中将・副司令官・子爵・地中海艦隊司令官・白色艦隊中将・トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊二十七隻を撃滅するが自身も戦死・英国国葬)は、一八〇五年十月二十一日、トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊と戦ったとき、四十七歳だった。

 だが、「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という信号を掲げ、フランス・スペインの連合艦隊を破り、自分は戦死した。
 
 そのネルソン提督の最後の言葉は、「神様ありがとうございました。私は自分の義務を果たしました」というものであった。