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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

230.山下奉文陸軍大将(10)西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた

2010年08月20日 | 山下奉文陸軍大将
 その後、山下兵団は、まさに敵を蹴散らしながら、マレー半島を南下した。強風下のコタバル上陸から、シンガポールに日章旗が翻るまで、二ヶ月余の怒涛の進撃だった。

 マレー作戦で、山下大将の自動車付近にも砲弾が飛来して、副官は生きた心地もせず同乗していると、山下大将は「こんな時は眠るんだ。眠っていれば怖くないよ」と言った。

 砲弾の飛ぶ中で眠れる人は、よほど人間離れのした怪物だ。部隊長や参謀長でも恐怖で顔面を引きつらせていた。軍司令官ともなれば部下の前で怖がって見せない修業は積んできたのだろう。

 昭和十七年二月九日、シンガポールを目前にして、ジョホール渡河作戦が行われようとしていた。この日の夜は、本来なら近衛師団が先陣を切って渡河することになっていた。

 「シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この日、近衛師団長・西村琢磨中将(陸士二二・陸大三二)が参謀長・今井亀次郎大佐(陸士三〇・陸大四二)をつれて、第二十五軍司令部を訪れ、師団の先頭上陸部隊が全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。だが、後に二月十一日になって、先頭上陸部隊は健在で、悲観した状況ではないことが判明した。

 「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、三日前の二月六日、第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八首席)が各師団長を集め、攻撃命令を下達したとき、西村師団長の表情がいかにも自身なさそうであったので、山下中将は気になっていた。

 山下中将は、二月九日に西村中将の報告を受けて、近衛師団を急遽、後続部隊に回すことにした。その日の日記に山下中将は次のように記している。

 「各師団長皆最善ヲ尽クサンコトヲ期スルモ、独リ近衛師団長ハヤヤ確信ヲ欠キ、当惑気ニ見ユ。嗚呼」

 山下中将は二月十日朝、ジョホール水道をわたって戦闘司令所をテンガー飛行場北方の英軍高射砲陣地跡に進めた。

 渡河中、しばしば流弾が舟艇をかすめた。副官の鈴木貞夫大尉は、舟艇に軍司令官用乗用車も積んであったので、その中に入るように山下中将にすすめた。

 途端に、鈴木大尉は山下中将から「バカ!」と叱られた。考えてみたら、もし自動車に入ったままで舟艇が沈んだら、肥っている山下中将は出られないのだ。

 二月十一日の近衛師団の行動も不活発にみえ、山下中将は日記に次のように記した。

 「GD(近衛師団)ハ不相変グズグズ。業ヲ煮ヤシ馬奈木少将ヲ派遣シテ督促スルニ、一時ハ善キモ又元ノ木阿弥。蓋シ怯懦ニシテイクサヲ避ケテウロウロ動キ回ルニ過ギズ」

 山下中将は、当初、栄光の近衛師団をシンガポールに一番乗りさせようと考えてそのように配置していた。だが、師団長が意気消沈していたのでは仕方がなかった。それで第五師団と第十八師団の精鋭部隊を先鋒として、渡河作戦を行った。

 ところが、ジョホール渡河作戦が成功した後に、部下の突き上げにあったのか、自分の意思だったか定かではないが、近衛師団長・西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた。

 栄光の部隊が邪魔者扱いされて第一線をはずされ、「第二次、第三次の渡河組に回されたから、英軍の火攻めの重油戦術にひっかかったんだ。これだけ多くの死傷者を出した責任を取ってもらいたい」と言って来たのである。

 このとき、軍司令官・山下中将は、すでにシンガポールに渡った後で、ゴム林の中に天幕を敷き、幕僚達と乾パンと水の朝食を食べている時だった。いつもは温和な第二十五軍参謀・解良七郎中佐が、興奮の面持ちでこの一件を知らせに来た。

 この報告を聞いた山下中将は、西村師団長の言動に「失敬千万な」と怒りをあらわにしたが、近衛師団の一連隊全滅の報にはさすがに顔色が変わったと、辻政信中佐は書いている。

 作家の井伏鱒二は、人伝に聞いた話として、「宮兵団(近衛師団)の西村中将は剛将であった。二・二六事件の判士長として、峻烈な粛軍の火蓋を切った人で、青年将校のシンパで皇道派の山下とはいつも対立していた。マレー作戦でも対立して、近衛師団は継子扱いされた。二十五軍では、近衛師団は勝手に作戦すべしなどと毛嫌いされた」と書いている。

 事の真意は別として、青年将校を処刑された山下の恨みと、二・二六事件に激怒した統制派の剛将・西村という対立の図式はうがった見方としても、あり得る。

 「東條英機首相を首領と仰ぐ西村中将は、マレー上陸以来、しばしば東條首相に書簡を書き送っている。本来天皇を守る近衛師団をないがしろにするとなれば、東條首相には不忠と映ってしまう」と元参謀の一人は述べている。

229.山下奉文陸軍大将(9)研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ

2010年08月13日 | 山下奉文陸軍大将
 もともと、正月攻略が山下中将の持論だった。一ヶ月繰り上げは当然のことで、本来なら、いま一声欲しいところだった。だが、固執はしなかった。幕僚中心主義、つまり、計画立案は幕僚に委ねるのが、日本陸軍の建前だったからだ。

 不満のタネは別にあった。世界が注視する大戦争である。大本営報道部が叫ぶように「百年戦争」などできるものではない。すばやく正々堂々と打撃を与え、敵からも、被支配地住民からも「大義の戦士」とあがめられてこそ、有終の成果を期待できるのだ。

 ところが、指揮下の幕僚、将兵を見ると、山下中将の眼には、少なからず、この戦争に対する懸命さと賢明さが欠けているように見受けられた。

 一ヶ月繰り上げ計画にしても、辻中佐の提案の裏には、緻密な計算のほかに、なにか記念日目当て、いわば大向こうの拍手を期待するスタンドプレー的臭気がただよっていると、山下中将は感得した。

 辻中佐ばかりではない。山下中将の昭和十六年十二月二十六日の日記には次のように書かれている。

 「両D共前進ス。飛行副長来ル。研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ」(Dは師団の略語。この日から近衛師団歩兵第四連隊が第一線に加わった)。

 「皆馬鹿ナリ」は極端な表現だが、よく知れば知るほど、万事に細心な山下中将にとっては、部下の挙動は不満だらけだった。

 副官の鈴木貞夫大尉も受けるのも、注意とお叱りの連続だった。山下中将の清潔好きはますます強化され、どんなに暑くても、北支初陣に携行した折りたたみカヤでベッドを覆い、食物の洗浄は厳に守らせた。

 第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士二二・陸大二九)が、戦列参加を前に挨拶に飛来したとき、鈴木副官が気を利かせてご馳走を出すと、「先陣だ、分相応にせい」といわれ、荷物を運ばせる苦力に目を止めると、「おい、チップを用意したか、誰だってタダで働かせるのは、いかん」など、言われてみればもっともなことばかりだった。

 第五師団に随行して作戦指導にあたっていた第二十五軍の作戦主任参謀、辻政信中佐は、現有の第四十一、第四十二連隊だけでは兵力不足と判断して、クアラルンプール攻略促進のために西海岸沖を海上機動して敵の側背をつく予定の第十一連隊を増派するよう、タイピンの軍司令部に進言した。

 辻中佐は電話では言葉不充分として、夜半、車を飛ばして司令部を訪ね、増派の要請を行った。だが、意見が通らぬとみると、辻中佐は「辞めさせてもらいたい」と発言する一幕があった。

 そのとき、山下中将は別室に休んでおり、鈴木参謀長を通じ委細を承知したが、辻中佐の態度がよほど山下中将のカンにさわったとみえ、次のように日誌に鋭い批判を書いている。

 「一月三日・晴・土。『カンパル』ノF(敵)ハ逐次退却セルモ窮迫大ナラズ、蓋シ大隊長等ノ元気不足ナレバナリ・・・・辻中佐第一線ヨリ帰リ私見ヲ述ベ、色々言アリシト云ウ。此男、矢張リ我意強ク、小才ニ長ジ、所謂コスキ男ニシテ、国家ノ大ヲナスニ足ラザル小人ナリ。使用上注意スベキ男也」

 この後に続いて、山下中将は「小才物多ク、ガッチリシタル人物ニ乏シキニ至リタルハ亦教育ノ罪ナリ」と付け加えている。

 カンパルは、辻中佐を批判した翌日、一月四日に陥落し、第二十五軍司令部は一月五日、イポーに移った。軍司令部は華僑の富豪の邸宅に入った。

 この日、山下中将は早速、軍属、通訳を舌鋒にのせた。日誌には次のように記している。

 「午前十時、徴用人員ヲ集メ一場ノ訓示ヲ与フ。彼等自我心ニ駆ラレ、只利害関係ノミニ眩惑シ、此度徴用セラレ死生ノ地ニ立タシメラレタルコトニ関シ、甚シキ不平アリ。千載一隅ノ時機、自己ノ腕ヲ国家ノ為ニ揮フト云フガ如キ、意気アルモノ一名モナシ・・・・・・」

 「夜、通訳ト談ジ聖戦ノ本旨ヲ述ブ。彼等何事モ知ラズ、只食フ為ニ英語ヲ話ス一種ノ器械也、嗚呼」

 第二十五軍は、クアラルンプール以南のマレー半島南部を一気に制圧することになり、山下中将は、第五師団を本道に、近衛師団を西海岸に配し、東岸を南下する第十八師団と呼応して追撃を早める措置をとったが、山下中将はその部隊にも不満を述べている。

 「一月六日・晴・火。・・・・・・部隊ノ鍛錬、大隊長以下ノ能動能力ノ低下ニ驚クノ外ナシ。戦後ハ何ヨリモ将校以下幹部ノ積極性涵養ヲ最必要トス」

 「一月八日。晴・木。午前十時発、カンパル戦場ヲ見ル。・・・・・・好適ノ攻撃地区ヲ為スニ拘ラズ、徒ラニ道路ノミ依ラントシ攻撃、三十、三十一、一、二、三、四ト六日ニ及ビ、而モ戦死者百、負傷二百ヲ出セシハ愚ノ極ナリ・・・・・・」

 「下士出身ハ自ラノ都合ヲ考ヘ、当番衛兵等ニ対スル同情無キハ通有ノ欠陥ナリ。家庭教育ノ罪ニアルベシ」

228.山下奉文陸軍大将(8)英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか

2010年08月06日 | 山下奉文陸軍大将
 十一月十八日、協定は無事完了した。その日は山下中将五十七歳の誕生日だった。「宮田少佐」の呼称でサイゴンを訪れていた竹田宮恒徳少佐(陸士四二・陸大五〇)の臨席の下に、陸海軍関係者の夕食会が催された。

 「宮田少佐」は、ニコニコと談笑に加わっていたが、誰にともなく、「それで、シンガポールはいつ落ちますか」とたずねた。

 「ほぼ、三月十日、陸軍記念日を期しております」と答えたのは、第二十五軍作戦参謀・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)だった。

 だが、山下中将は、「いや、」と口をはさんで、「殿下、小官は正月には必ずとるつもりでおります」と言った。

 「正月? それは早すぎませんか」と、「宮田少佐」は反問した。辻中佐も驚いて、少し向きになった口調で、「正月には、ぺラク河の線が妥当でしょう」と言った。

 山下中将は、それ以上は発言しなかった。だが、山下中将は前日、サイゴン郊外のゴム林とジャングルを視察した。その結果、次の様な想定をしていた。

 ゴム林もジャングルも歩兵の突進にはさして障害にならない。それにシンガポール攻略は南方作戦の要である。南方作戦の第一段階の最終目標はジャワの油田地帯だが、ジャワにはシンガポール、フィリピンを制圧してから向うことになっている。

 シンガポールは、海正面からの攻撃は敵の要塞があるので避け、防備不利なマレー半島を南下して背後から攻める。その縦断距離は約千百キロ、長行軍とはいえ、一刻も早く攻略せねば、ジャワの防備は強化されるばかりだ。

 以上のことが頭にあったので、山下中将としては、正月と言ったのは確かに早すぎるとは承知しながら、あえてそのくらいの覚悟と熱意で突進すべしと強調した。

 昭和十六年十二月八日午前一時半頃、歩兵第二十三旅団長・佗美浩陸軍少将が指揮する第五十六連隊基幹の佗美支隊が、マレー半島北部のコタバル海岸に上陸した。

 太平洋戦争の始まりは、海軍の真珠湾攻撃よりも、この陸軍のコタバル海岸上陸のほうが早かった。コタバル海岸上陸は、シンガポール攻略を目的として、日本の第二十五軍が行った、マレー作戦の開始でもあった。

 同時刻に、北方のタイ王国領シンゴラ、バタニ地区に第五師団主力三個連隊を率いて上陸したのは、第二十五軍司令官・山下奉文中将だった。

 マレー作戦に参加したのは、第二十五軍隷下の第五師団、近衛師団、第十八師団だった。それに第三戦車軍団なども参加した。

 上陸当時の兵力は、各師団の全部隊が参加したのではないので、約二万六千人に過ぎなかった。だが、敵のイギリス軍は八万人を超えていた。

 もし敵が日本軍の進撃する道路の両側に布陣して、橋を破壊して日本軍の進撃をくいとめれば、前進が手間取るだけでなく、第二十五軍は逐次に兵力の消耗をかさねてマレー半島の密林内に自滅する可能性もあった。

 山下中将は、こういった危険をさけ、迅速に使命を達成する戦法はただひとつ、息つかぬ突進による的中突破以外にないと判断した。山下中将は参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一)に次のように言った。

 「ドイツの電撃戦、あれは敵陣にクサビをうちこみ、両翼に迂回して包囲する戦術だが、こちらはまっすぐジョホールまでキリモミでいく。残敵は後続部隊が始末すればよい。電撃戦ではなく電錐戦だ」

 山下中将は、さらに一息ついて付け加えた。

 「敵兵力は・・・・八万か。うむ。敵は八万いようとも、わが兵には東亜開放の聖戦目的がある。実戦の経験もある。英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか」

 十二月十二日、イギリス軍が誇る、タイとマレーの国境に構築していた頑強な防御陣地「ジットラライン」を日本軍は攻撃開始した。そして、その日のうちに陥落させた。

 昭和十六年十二月十七日、第二十五軍司令部は次のような作戦計画日程を決定した。

 十二月二十八日ベラク河進出、ペナン島占領。昭和十七年一月七日ベラク渡河完了。一月十七日クアラルンプール占領。一月二十七日ジョホール州占領。二月十一日(紀元節)シンガポール占領。

 山下中将が、サイゴンで竹田宮少佐にもらした「シンガポール正月占領」には及ばないが、予定の三月十日(陸軍記念日)よりは一ヶ月の繰り上げである。

 起案者は作戦主任参謀・辻政信中佐だった。幕僚の間には実現を危ぶむ声も聞こえたが、山下中将は即決した。だが、山下中将は、内心、不満だった。

227.山下奉文陸軍大将(7) 今度は山下中将が巨眼をむいて山本大将に迫った

2010年07月30日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将が、マレー、シンガポール攻略を担当する第二十五軍司令官に正式に任命されたのは、東京に着いた翌日、昭和十六年十一月九日だった(発令電報は十一月六日)。

 十一月十日、陸軍大学校で、すでに策定されていた陸海軍中央協定に基づき、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵三二・海大一四)と寺内寿一南方軍総司令官(陸士一一・陸大二一)との間に、最終的な協定覚書が作成された。

 この日は、マレー作戦の第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜)を始め、フィリピン攻略担当の第十四軍司令官・本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜)、ジャワ攻略担当の第十六軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)、その他関係指揮官、幕僚も参集した。

 打ち合わせ終了後、正午から杉山元参謀総長(陸士一二・陸大二二)、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)以下陸海軍幹部をまじえて、昼食会が開かれた。

 山下中将が席に着くと、右側の椅子があいている。誰が来るのかと思っていると、来たのは山本五十六海軍大将だった。

 「これは閣下」「お元気で、このたびは・・・・」と簡単な挨拶が済むと、早速、山本大将は山下中将に話しかけてきた。

 話題はドイツ視察団の際の見聞から、山下中将の職務が極めて頻繁に変わることに及び、山本大将は、「これでは閣下も困るし、職務自体にもマイナスである」と同情の念を表した後、山下中将を直視して次のように質問した。

 「今回の御任務、まことにご苦労ですが、閣下の確信はいかがです?」

 細いが鋭い山本大将の眼だった。その眼を山下中将もぎろりと見返して、得意の反問戦法を試みた。

 「いや、閣下のほうこそ、いかがですか?」

 すると山本大将は次のように答えた。

 「閣下、自分は半生をこの作戦(ハワイ空襲)に傾けてきました。必ず成功させます」

 そのあと、山本大将は、茶碗を右手に握ると、今一度、山下中将にマレー作戦に対する抱負を尋ねた。山下中将は次のように述べた。

 「問題は陸地に足をかけることにあると考えます。この方面については、両三年前から全ての記録をあさりつくしているので、事情はわかります。相手はインド人を交えた軍隊なので、始末はしやすい。上陸さえすれば必ず成功します。しかし、この点(上陸)は、当方としてはどうにもなりません」

 今度は山下中将が巨眼をむいて山本大将に迫った。「上陸船団の護衛に当たる海軍の南遣艦隊の劣勢」について、ただしたのである。

 山本大将は、ちょっと口ごもったが、すぐ山下中将を正視すると次のように率直に答えた。

 「お説の通り、その方面は海軍として、少し力不足の感があります。しかし、重点(ハワイ空襲)に徹する以上、やむを得ません」

 山下中将は、破顔してうなずいた。山本大将は山下中将より一歳年長で、そして一階級上である。その山本大将が素直に、辛抱をお願いする、との意を込めて答えた。この山本大将の態度は、何より率直さを好む山下中将を喜ばせた。

 山下中将は「なあに、開戦までは向うから手出しするとは思いません。成功しますよ」と言った。

 すると山本大将は「そう。連中にすれば、少しおどかせばこちらは引っ込むと思っているでしょう。上陸作戦も成功を信じております」と答えた。

 山下中将は「上陸すれば、必ず成功します。たとえ、山田長政になっても、必ずシンガポールはおとしてごらんにいれます」と言った。二人は最後には、快く笑い、お互いに成功を祈って別れた。

 昭和十六年十一月十五日、山下中将は第二十五軍司令官としてサイゴンに着任した。山下中将は早速南遣艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)と会見して、上陸援護に関する陸海協定問題に取り組んだ。

 小沢中将は快く全力を挙げて上陸援護に当たる旨を答え、第三飛行集団長・菅原道大中将(陸士二一・陸大三一)もまた、損害をかえりみず上陸日日没までの上空警戒実施を承知した。

226.山下奉文陸軍大将(6) 東條陸軍大臣は、山下航空総監を遠いヨーロッパに遠ざけた

2010年07月23日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将は航空総監に就任したが、実際には航空総監としての仕事はほとんどしないで過ぎた。就任後まもなく、八月に入ると、ドイツ軍事視察団派遣が提議され、その団長に山下中将が内定した。

 このドイツ軍事視察団派遣団長の人事は東條陸軍大臣が、山下中将の次期陸軍大臣就任を阻止するために行ったと言われている。

 この頃、山下中将は陸軍部内で評価が高く人気があり、沢田参謀次長を始め支持者も多かった。この状況では次の陸軍大臣は東條の陸士一期後輩でもある山下中将になる公算が強かった。そこで、東條陸軍大臣は、山下航空総監を遠いヨーロッパに遠ざけた。

 昭和十五年十二月二十二日、山下中将を団長とするドイツ軍事視察団は東京を出発した。視察団はドイツ、イタリア両国を訪れ、軍事施設等を視察、昭和十六年七月七日、東京に帰着した。

 当時、山下中将は対米英戦争に反対していたと言われている。視察団副団長・綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)によると、山下中将はドイツ、イタリアの視察から帰国する前に、使節団の一行を集め、次のように訓示したという。

 「諸君は近く大本営その他の本筋に復帰するであろうが、このたびの調査の結果にもとづく意見はかならずや各方面において重視されるに違いない」

 「それについてここで諸君に敢えて申しておくが、諸君は絶対に、すでに結ばれた日独伊三国同盟を拡張解釈し、英米に対し宣戦すべしなどと、かりそめにも言ってはならない」

 「視察の結果は諸君の見られる通りであるが、わが国は、決して他国を頼んではならないのである。日本は今こそソ連に備えて、速やかに国力を整備し、軍備をたてなおさなければならないのである。このことを、しかといましめておく」

 山下中将は、ドイツ軍事視察を終えて帰国すると同時に満州を防衛する関東防衛軍司令官を命ぜられた。七月十六日午後二時、葉山御用邸で視察についての御進講を終えると、山下中将は、五日後の七月二十一日午前九時三十五分東京発の「つばめ」に乗り込み、任地、牡丹江に出発した。

 山下中将の関東防衛軍司令官任命は、東條陸軍大臣の工作とも言われている。山下中将が御進講した昭和十六年七月十六日、近衛文麿首相は松岡洋介外相更迭のための総辞職を行った。

 東條陸軍大臣は政変を見越し、山下中将に陸軍大臣の椅子がまわらぬように、それまで反対していた満州の防衛軍創設をにわかに認可して、山下中将をその軍司令官のポストに押し込んだ、と言われている。

 山下中将とともに同軍の高級参謀に発令された片倉衷大佐が、赴任の挨拶に武藤章軍務局長を訪れた時、武藤軍務局長は「いずれ、山下(中将)は陸軍大臣として東京に帰る。その時は、君も陸軍大臣の補佐をつとめることになるはずだ」と述べたといわれている。

 昭和十六年十一月六日午前一時頃、関東防衛軍司令官・山下奉文中将は東京からの至急電に起こされた。「九日までに上京せよ」という。電文は簡略であるが、明らかに新編成の軍司令官任命の内報だった。

 十一月七日、山下中将は満州国皇帝にお別れの挨拶をした。新任務は極秘だが、皇帝はやがて「大日本帝国、同時に満州帝国の運命を決する」事態が起きることを感知した。

 皇帝はかねて好意を寄せる山下中将の手を握り、「元気に活躍せよ、再び新しき話を齎せ呉れよ、呉れ呉れも元気にて天皇陛下に忠勤を抽んでよ」と、両眼に涙を浮かべて別れを惜しみ、部屋の入り口まで山下中将を見送った。

 十一月八日、関東防衛軍司令官の職を解かれた山下中将は、この皇帝の殊遇に感激しながら次の軍司令官任命のため満州を発ち、特別機で日本の立川に向った。

 だが、立川飛行場に着陸したとたん、山下中将の心境は一変して不快になった。当然、出迎えがあるべきなのに、唯一人、それらしい姿は見えなかった。

 ガランとした滑走路を副官と二人、カバンをぶら下げて歩くと、行き交う整備兵がけげんに敬礼するだけである。飛行場の建物に入ると、中将閣下の到来に一同愕然とするが、参謀本部からもなんの連絡もない、という。

 やっと技術研究部から自動車を借りて東京・九段の偕行社に着くと、案内されたのは、なんと二階の小汚い部屋だった。なにぶんにも、良い部屋は新婚夫婦の予約済みでして、というのが、担当者の言い訳だった。

 「よし」と答えたものの、山下中将はムッとして、憤懣の文字を次のように日記に書き綴った。

 「結婚者ノ為ニ要ストテ良室ヲ彼等ニ与ヘ、出征将軍ハ二階ノ陋室(ロウシツ)ニ置ク・・・・・今ヤ全ク商売根性ニ駆ラレ大義モ何モ知ラズ、哀レナリ」

 食事も悪ければ、女中のサービスもひどかった。山下中将は、投げ出すように給仕する女中をプンとにらみつけた。

 「女中頭以下女中等、全ク月給ノ奴隷ニシテ明日出征スル人ノ為ナド毛頭考ヘ居ラザルハ遺憾至極ナリ」

225.山下奉文陸軍大将(5) 東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた

2010年07月16日 | 山下奉文陸軍大将
 帰順を終えた将校は官邸に集まるよう指示され、次々にやってきた。そのたびに、山下少将は呼び止めて、「おい、貴公、これからどうするか」と訊いた。

 「ハイ、自決します」と言えば右、「断固、昭和維新に邁進します」と言えば左の部屋を指示された。だが、自決組もやがて、野中四郎大尉(陸士三六)や栗原中尉らに説得されて、法廷闘争の道を選ぶことになった。

 「木戸幸一日記」の事件二日後の記述には、近衛公からの情報として「今回の事件は岡村(寧次)・山下(奉文)両少将、石本(寅三)大佐の合作なりとの相当確実なる聞き込みあり」という記述がある。

 昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件以後、山下奉文将軍は、ほとんど東京というか、日本にいない。

 昭和十一年三月には歩兵第四十旅団長。第四十旅団長は左遷人事のように言われているが、二・二六事件後、広田弘毅内閣の寺内寿一陸軍大臣の配慮だったとも言われている。事件後、東京では軍法会議が始まり、山下少将も東京にいれば、平穏ではいられない。それで京城の第四十旅団に赴任させた。

 昭和十二年八月支那駐屯混成旅団長、十一月に中将に昇進し、昭和十三年七月北支那方面軍参謀長、昭和十四年九月第四師団長(満州)。

 昭和十五年七月になってようやく、航空総監兼航空本部長として中央に返り咲いたが、その年の十二月には東條英機陸軍大臣によりドイツ派遣航空視察団長に任命され、ドイツに追いやられた。

 昭和十六年七月新設の関東防衛軍司令官(満州・新京)、十一月第二十五軍司令官、開戦後マレー作戦(シンガポール陥落)。昭和十七年七月第一方面軍司令官(満州)。

 昭和十八年二月大将に昇進、昭和十九年九月第十四方面軍司令官(フィリピン)、昭和二十年八月フィリピンで終戦、捕虜となる。十二月マニラ軍事裁判で死刑判決、昭和二十一年二月二十三日処刑。

 以上のような、流れを見てみると、山下将軍は、二・二六時件以後、ほとんど外地に飛ばされ、そのあげく外地で処刑された。

 「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、東條英機と山下奉文について、河辺正三陸軍大将(陸士一九・陸大二七恩賜)は、戦後、次のように語っている。

 「大東亜戦争になって、東條、山下の両氏は、なにか運命のようなものにさえぎられて肝胆相照らすことができなかったが、ベルン時代の二人は実に仲が良かった」

 「あれほど仲の良かった二人の結びつきが、大東亜戦争を前にして離ればなれになったということは、私には、なんだか不思議でならない。事情もあっただろうが、あの二人がしっかりと手を握ってくれたならば、日本の歴史も少しは変わっていただろう」

 実際、ベルン時代には山下と東條は一緒に旅行したり、東條が自分の愛人を山下に紹介したりしている。だが、後年、二人は袂を分かち、東條は山下を退けた。そして二人とも戦犯として処刑されることで、軍人としての人生を終えた。

 昭和十五年七月十八日、近衛文麿内閣の陸軍大臣に航空総監・東條英機中将が選ばれた。東條中将は、前任の畑俊六大将(陸士一二次席・陸大二二首席)から政変と陸相就任を告げられると、航空総監の後任は誰かと尋ねた。

 畑陸相が「山下奉文中将です」と答えると、東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた。思わず遠くを見つめるように。

 山下中将の航空総監就任は、山下中将の親友、参謀次長・沢田茂中将(陸士一八・陸大二六)の微妙な工作で決定した。

 沢田中将は後任陸相が東條中将と知ると、かねて不仲と承知される二人なので、東條陸相の下では、ますます山下中将の中央復帰のチャンスは遠のくと判断して、畑陸相に働きかけて非常手段をとった。

 七月十八日、畑陸相が後任陸相として東條中将を内奏するさい、山下中将の航空総監もあわせて奏上してもらったのだ。

 昭和十五年七月二十二日、山下中将は航空総監に就任し、東京に戻ってきた。「史説・山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、東京駅には、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)、杉山元大将(陸士一二・陸大二二)、阿南惟幾陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)、沢田茂参謀次長(陸士一八・陸大二六)、武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)その他多数の高級将校が出迎えた。

 山下中将は北支那軍参謀長として、寺内、杉山両軍司令官に仕えた。山下中将はまず両大将に敬礼すると、参謀次長・沢田中将の手を握った。

 「ありがとう」。その一言に、山下中将は沢田中将の友情に対する万言を越える感謝の意をこめ、握り返す沢田中将の手に、二度、三度と力をこめた。

224.山下奉文陸軍大将(4) 自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか

2010年07月09日 | 山下奉文陸軍大将
 趣意書に二、三箇所の添削を終わったあと、山下少将は、しんとせまる寒気に背を固くして端座する二人の大尉に眼をむいたまま、ついに一言も発しなかった。

 「わからない」。山下少将の家を出た安藤大尉は首をひねった。いまの無言劇は何と解釈したらよいのであろうか。

 一つは山下少将が決起を本気にしなかったのではないかという見方であるが、これはうなずけなかった。とすれば、決起のことは本気だとしても、大規模なものではなく、数人の相沢中佐の挙にとどまるであろう。

 さらに青年将校らの一部的蜂起は政財界に対する軍の支配権確立のためにも有利に展開するのではないか、と考えての黙認の形の沈黙ではなかったか。

 もう一つは、自分の訓育した安藤大尉らに対する温情ではないかという見方だ。あの純真な安藤らが、ここまで思いつめた熱情に対して、せめて思いをとげさせてやりたいという無言の激励ではないのか。いずれにしても、推測の域を出るものではなかった。

 「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、昭和十一年二月二十六日午前六時過ぎ、突然山下少将の自宅の電話がけたたましく鳴った。

 山下少将の妻、久子の妹、勝子が急いで電話口に出ると、電話の主は陸軍大臣秘書官・小松光彦少佐(陸士二九・陸大三八)だった。

 山下少将が電話に出ると、小松少佐が、青年将校らが政府首脳を襲撃したことを伝えた。山下少将は一瞬、「なにっ!」と驚いた後で、「よし、今すぐ行く」と言ってから電話を切った。

 その直後、久子も、妹の勝子も、山下少将の「バカめがっ!」という、吐き出すような声を聞いている。まさか青年将校たちがこういう形で事件を起こすことは予想外だったのだ。

 事件の朝、陸相官邸に駆けつけた山下少将は、軍事参議官の荒木貞夫大将(陸士九・陸大一九首席)、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九)らの意を受けると、決起部隊説得のための草案作りにとりかかった。

 これが後に問題になる大臣告示だが、荒木、真崎らのように権限のない軍事参議官の名では出せないので、川島義之陸軍大臣(陸士一〇・陸大二〇)をしぶしぶ承諾させてできあがった告示だった。

 山下少将は決起した青年将校たちに、この大臣告示を読み上げた。だが、この大臣告示はあいまいな内容だったので、磯部ら青年将校が「自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか」と山下少将に詰め寄ったのも無理は無かった。

 だが、山下少将はそれをまるで無視するかのように、同じ文面を三度読み返しただけだった。参内した川島陸相に対して天皇が怒りをあらわにして事件の鎮圧を命じたことも山下少将には分かっていたこともあるが、事件そのものに山下少将自身も不快感を抱いていた。

 事件翌日の二月二十七日、本庄繁侍従武官長(陸士九・陸大一九)が天皇に「青年将校らの行為は認めがたきものなれども、その憂国の精神はくんでやるべきかと・・・・」と申し上げると、天皇の返事は予想を超えて激しいもので、本庄侍従武官長を叱責し、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と言われた。

 天皇は、決起した兵士達に速やかに原隊に復帰するよう奉直命令を出した。天皇の意思がはっきりした以上、決起部隊の青年将校たちが素直に原隊復帰に応じるか、皇軍あい撃つといった局面になった。

 二月二十八日、奉勅命礼を受けた香椎浩平(かしい・こうへい)戒厳厳司令官(陸士一二・陸大二一)から正式に戒厳令が公布された。これにより決起部隊は反乱軍となり、討伐命令が下されることになった。

 これを決起部隊の青年将校たちに伝えたのは山下少将だった。青年将校たちは陸相官邸で、大臣告示が空手形であったことを思い知らされ、自決しろと引導を渡された。

 「史説 山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、そのとき栗原安秀中尉(陸士四一)が「いま一度、統帥系統を経て、お上にお伺いしよう。もし死を賜るならば、侍従武官の御差遣を願い、将校は立派に屠腹し、下士官のお許しを願おう」と言った。

 山下少将はこれを聞き「よく、そこまで決心してくれた」と感涙した。山下少将は午後一時、川島陸相とともに本庄侍従武官長を訪ねた。将校一同は自刃する。下士官以下は原隊に復帰させる。ついては「勅使ヲ賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ」と言った。侍従武官の差遣は天皇の許可がいる。

 本庄侍従武官長は「とても駄目だろうが、一応申し上げてみる」と、天皇の前に出ると、果たして天皇は非常に立腹された。「自殺スルナラカッテニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」。

 さすがに山下少将も悄然として退出したが、陸相官邸に帰ってみると、青年将校達の姿は無かった。なんとなく自決ムードに支配されたものの、自分達が死んだら、昭和維新はどうなる、兵はどうなるんだ、と気づき、次々に自決中止、徹底抗戦の決意を固めてそれぞれの持ち場に戻ったのである。再び反乱部隊と、鎮圧部隊は対峙した。

 だが、二月二十九日になり、青年将校たちは、説得されて次々に帰順し始めた。山下少将は、十八の棺を用意して陸相官邸の玄関に立っていた。

223.山下奉文陸軍大将(3) 相沢がやったとき、ギャーッ! と、実に大きな悲鳴をあげたそうだよ

2010年07月02日 | 山下奉文陸軍大将
 「縦横談か・・・ハッハッ!」。山下少将は肥満した身体をゆすぶって言った。「特別これという話も無いがね・・・ニ、三日前、相沢三郎中佐(陸士二二)のところへ、面会に行ってきたよ」。

 「相沢中佐は元気でしたか」と青年将校が問うと、山下少将は次のように答えた。

 「元気だ。奴ももう悟り済まして、参禅を地で行っているような気持ちでいるようだ。オレは別に何も言うことはないから、禅も武士道も帰すところは同じだから、武士道を守らにゃいかん、と話した」

 「相沢は喜んでね・・・・あの兇行の日に、廊下でオレから『静かにせにゃいかん』と言われたことを、しきりに感謝していた。オレの声が耳に入ったんで、自分は落ち着きを取り戻し、神気に打たれたような爽やかな気分になりました、と何度も繰り返してたよ」

 これは山下少将の自慢話だったが、青年将校たちは、生真面目な顔つきで拝聴した。山下少将は続けた。

 「そういったところが、いかにも相沢でね・・・・オレが帰ろうとしたら、閣下、と呼び止められてね・・・国家非常の際ですから、どうか閣下も御国のために確りやって下さい! オレは気合をかけられて、帰ってきた」

 和やかな笑いが、まき起こった。山下少将は若い者らの笑いを、気持ちよさそうに見やっていたが、やがて目をすぼめるようにして、左右を見回し、「あれだってね・・・・・大きな声がしたそうだね」と前置きしてから、軍刀の柄を両手で握って刺す真似をして「相沢がやったとき、ギャーッ! と、実に大きな悲鳴をあげたそうだよ」と言った。

 ギャーッ! と、悲鳴をあげたのは軍務局長・永田鉄山陸軍少将(陸士一六首席・陸大二三次席)のことだった。だが、青年将校たちは、今度は誰も笑わなかった。ただ、目を見張っているだけだった。山下少将は薄笑いをぎこちなく引っ込めた。

 話が「十一月事件」にふれた。「アノ事件では、永田は小細工をやりすぎたよ」と山下少将は言い、次のように話を続けた。

 「大体、おかしいじゃないか。士官候補生を逮捕するのに、生徒隊長や学校長は何も知らないで、軍務局長と陸軍次官だけでやっておる・・・・あれはいかん。小細工はいかんよ、大鉈で行かにゃ!」

 やっぱりそうか、村中や磯部が躍起になっている通り、やはり永田の策謀で、辻政信大尉は永田に踊らされてやったのだな、と、そんな表情が青年将校たちの顔に浮かんだ。

 話は次第に現在の時局問題にふれてきた。青年将校たちは山下少将が陸軍省の調査部長として、どのような認識を持っているか知ろうとして熱心に耳を傾けた。だが、山下少将の話はのらりくらりとして、核心を外れ、つかみ所が無かった。

 とうとう安藤大尉が「岡田啓介総理(海兵一五・海大二)はどうですか」と質問した。すると山下少将は、大きな二重まぶたの目を、ピカリと光らせて、「岡田なんか、ぶった斬るんだ!」と声に力を入れて言った。

 山下邸からの帰途、青年将校たちは話し合った。新井勲中尉(陸士四三)が「安藤さん、山下閣下は、岡田はぶった斬るんだ・・・といいましたね?」「うん、言った」「あれは一体どういう意味なんですか」「どういう意味か・・・・俺にもよく分からん」「ほんとに、ぶった斬れ、というんでしょうか」「さあ?」安藤大尉は首をひねって、あとは重苦しく押し黙った。

 だが、この「岡田なんか、ぶった斬るんだ!」の一言が、青年将校たちを二・二六事件に突っ走らせたという人々もいる。だが、青年将校たちはそれほど単純ではない。上層部へのつながりができたと力強く思った程度であろう。

 「日本を震撼させた四日間」(新井勲・文春文庫)によると、このときの山下少将訪問の感想を、新井勲中尉は次のように述べている。

 「山下の語る所はまことにつまらぬものばかりであった。ほかの者は知らぬが、実は、私としては非常に失望した。今迄軍の中央部には、政府よりも何よりも期待と尊敬とをもっていたものだが、その脳味噌のカラッポを見せ付けられたからだ」

 だが、山下少将の青年将校に対する扇動は、二・二六事件の発生を考えると、あまりに重大すぎた。特に、天皇陛下の怒りは頂点に達したと言われている。

 「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、山下工作で最も象徴的だったのが、二月十三日の会見だった。この日山下邸を訪れたのは、安藤輝三大尉(陸士三八)と、野中四郎大尉(陸士三六)だった。

 二人は「蹶起趣意書」を携行していた。山下少将が現れると、「閣下、蹶起趣意書であります」と、テーブルの上に広げた。

 山下少将は無言で一読したが、やがて筆をとると、数箇所添削した。野中大尉と安藤大尉は息をのんで山下少将を凝視した。

222.山下奉文陸軍大将(2) 山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた

2010年06月25日 | 山下奉文陸軍大将
 「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、山下奉文(ともゆき)大将は明治十八年十一月十八日、高知県香美郡大杉村に生まれた。吉野川上流の山中の田舎村だった。

 父の佐吉は近在で唯一の開業医だったが、初めから医者だったわけではない。高知県の師範学校を出て小学校教師をしていたが、医者のいない村の実情に一念発起し、医師をめざして転身した。

 苦学の末検定試験に合格し、奉文が三歳の時、村で開業した。これだけでも意思と努力の人であることがうかがえるが、開業してからは、貧しい村人には治療費や薬代を請求しない「赤ひげ」的医者でもあった。

 山下奉文大将の部下や家の下僕に対する人間的な優しさはよく知られているが、その根っこは父親にあるとみてよいだろう。

 奉文は次男で、三歳上の兄、奉表(ともよし)がいる。奉表は苦学して、小学校の頃から常に首席を通した。医師の道を進み、海軍軍医学校を卒業し、後に海軍軍医少将になった。

 奉文は秀才の兄に比べて、机に向うよりも山野を駆け回ることを好むガキ大将だったが、終生、兄奉表を敬愛してやまなかった。「兄のように学校の成績がよければ、俺も医者になっていた」と山下奉文は後によく話していた。

 「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂正康・文藝春秋)によると、山下奉文将軍(陸士一八・陸大二八恩賜)に人間的な魅力があったことは間違いない。

 イギリスの作家で元陸軍大佐、アーサー・ジェイムス・バーガーは連合国軍として第二次世界大戦に従軍して戦ったが、「マレーの虎・山下奉文」(鳥山浩訳・サンケイ新聞社出版局)という本を出版している。

 その本の中でアーサー・ジェイムス・バーガーは山下将軍について次のように記している。

 「肥満していたが、非常に神経質であり、有能だったが、よく惑わされた。冷酷だったが潔癖なところがあった。多くの点でモダンだったが過去に束縛された。彼の心は偽善と責任回避を一切憎んだ。そして軍人稼業に関する限り、偉大な現実主義と判断を示した」

 「時折、山下は政治的冒険に忙殺された。そして、彼の手は決してきれいではなかった。しかし、彼の敵でさえ、彼の理解力と統御力の目立つ特質を認めた。そして、彼の友人、特に彼の幕僚として勤務した将校たちは、彼を全軍におけるもっとも優秀な指揮官だと考えた」

 昭和天皇は、二・二六事件で皇道派的な動きを見せた山下将軍を嫌っていたという説がある。ただ、それは東條英機大将(陸士一七・陸大二七)が山下将軍を天皇の前に出さなかったという話もある。

 一度、山下将軍が陸軍大臣にという話が持ち上がったが、天皇の意思でつぶれたという噂もある。

 「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)によると、山下奉文と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)の昇進の推薦に昭和天皇が印を押すのを嫌がったという記述がある。

 石原莞爾は浅原事件が原因のようだが、山下将軍については、小倉侍従の推測の域を出ていないが、日記には「二・二六事件か」とだけ書かれている。

 昭和天皇にとっては、二・二六事件は、かなりのトラウマになっている。相沢事件や皇道派の青年将校が引き起こしたクーデター、二・二六事件のとき、陸軍省軍事調査部長・山下少将は皇道派的な態度を示している。

 二・二六事件以後、皇道派の指導的立場の将軍達はほとんど中央から遠ざけられた。そのとき統制派として浮かび上がってきたのが、梅津美次郎(うめづ・よしじろう)(陸士一五・陸大二三首席)と東條英機だ。

 磯部浅一元一等主計(陸士三八)の獄中日記によると、昭和十一年二月二十六日に二・二六事件が起きたが、その前年の十二月に、磯部は陸軍省調査部長・山下奉文少将(陸士一八・陸大二八恩賜)の自宅を訪れた。

 そのとき、山下少将は「お前らは(国家)改造改造というが、案があるのか。あるなら持って来い。アカ抜けした案を見せてみろ」と、嘲笑したような態度だった。

 磯部が「案よりも何事か起こった時はどうするんですか」と言うと、山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた。

 「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、事件の前、村中孝次元大尉(陸士三七)と磯部浅一元一等主計に扇動されていた安藤輝三大尉(陸士三八)ら第一師団歩兵第三連隊の青年将校、十五、六名は、一月十五日夜、山下奉文少将の自宅を訪れ、意見を聞いた。

 山下家の応接間は、青年将校たちで一杯になった。「やあ、お揃いで、何だね?」。山下少将は和服の寛いだ姿で、応接間に入ってきた。

 「今夜は、一つ、閣下の縦横談を伺いに参りました」。安藤大尉が、先任者として口火を切った。

 安藤は、血盟団事件の際、内大臣・牧野伸顕を暗殺することになっていた東大生の四元義隆を、当時連隊長だった山下の指金で、将校寄宿舎の自分の居室に数日かくまったことなどもあって、山下少将とは特別親しい間柄だった。

221.山下奉文陸軍大将(1)将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい

2010年06月18日 | 山下奉文陸軍大将
 「シンガポール・山下兵団マレー電撃戦」(アーサー・スウィンソン・宇都宮直賢訳・サンケイ新聞出版局)によると、山下奉文は一時、父のように医者になりたいと考えたが、学業はけっしていいほうではなかった。

 結局、奉文の両親は彼にいちばん向いているのは軍人だと決め付けた。その決定について、山下将軍は後に次のように語った。

 「それはおそらく、わたくしの運命だったろう。わたくしはこの経歴を自分で選んだわけではなかった。おそらく父は、わたくしが、図体がでかく健康だったので、その考えをほのめかしたのだろう。母は、ありがたいことに、競争の激しい入学試験にとても合格すると信じなかったので本気になって反対しなかった」

 だが、山下はやすやすと合格し、明治三十三年、広島陸軍幼年学校に入校した。中央幼年学校も士官学校も優等で卒業、陸軍大学校も優等で卒業した。

 後年、「マレーの虎」と呼ばれ、武人的軍人の象徴にまつりあげられた山下大将だが、医者志望だったことからわかるように、本質は決して軍人至上主義の人ではなかった。

 並みいる将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい。軍刀にしても銘などにはまったく拘泥しなかった。

 山下奉文の家庭の日常は、閑な時は大抵昼寝をしていたと言われている。時々、大工道具を揃えて、修繕仕事みたいなことをしたかと思うと、夜店をひやかして、盆栽を買ってきて楽しむ無邪気で平凡な生活だったという。子供がないので、兄の子を養子に迎え、子供とのんきに遊んでいた。

 山下奉文の居眠りは有名だった。軍務の会議の最中でも居眠りをして鼾をかいたといわれている。実際は扁桃腺が悪くのどを詰まらせるから鼾のような音を出すのだと本人は弁解する。だが、居眠りすることは事実だった。

 <山下奉文(やました・ともゆき)陸軍大将プロフィル>

明治十八年十一月八日高知県香美郡香北町出身。山下佐吉(医師)の次男。三歳年上の兄、奉表は海軍軍医少将。
明治三十二年(十四歳)四月海南学校(高知市)入学。
明治三十三年(十五歳)九月広島陸軍地方幼年学校入校(二年まで首席、その後も2~3番の成績)。
明治三十六年(十八歳)七月広島陸軍地方幼年学校卒業。九月東京の陸軍中央幼年学校入校。
明治三十七年(十九歳)十一月陸軍中央幼年学校卒業。十二月陸軍士官学校入校。
明治三十八年(二十歳)十一月二十五日陸軍士官学校卒業(一八期)。広島の歩兵第十一連隊附。
明治三十九年(二十一歳)六月二十六日歩兵少尉。
明治四十年(二十二歳)六月清国駐屯軍歩兵中隊附(中国大陸)。
明治四十一年(二十三歳)十二月歩兵中尉。広島の歩兵第十一連隊附。
明治四十三年(二十五歳)十二月戸山学校教導隊附。
大正二年(二十八歳)十二月陸軍大学校入校。
大正五年(三十一歳)五月歩兵大尉。十一月二十五日陸軍大学校卒業(二八期・恩賜)。歩兵第十一連隊中隊長。
大正六年(三十二歳)二月元陸軍少将、永山元彦(陸士一)の長女、久子と結婚。八月参謀本部附。
大正七年(三十三歳)二月参謀本部部員(ドイツ班)。
大正八年(三十四歳)四月駐スイス大使館附武官補佐官。スイス公使館附武官・佐藤安之助大佐(陸士六)、補佐官・東條英機大尉(陸士一七・陸大二七)、河辺正三大尉(陸士一九・陸大二七)と交流。
大正十年(三十六歳)七月ドイツ駐在。
大正十一年(三十七歳)二月ドイツから帰国、歩兵少佐。七月二十二日陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課編成課長。
大正十四年(四十歳)八月歩兵中佐。
大正十五年(四十一歳)三月十六日陸軍大学校教官(兼任)。
昭和二年(四十二歳)二月二十二日オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官。
昭和四年(四十四歳)八月一日歩兵大佐。陸軍兵器本廠附(軍事調査部軍政調査会主任幹事)。
昭和五年(四十五歳)八月一日歩兵第三連隊長。
昭和七年(四十七歳)四月十一日陸軍省軍務局軍事課長。
昭和九年(四十九歳)八月一日陸軍少将。陸軍兵器本廠附。
昭和十年(五十歳)三月十五日陸軍省軍事調査部長(東條英機少将の後任)。
昭和十一年(五十一歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校らと交渉。三月十日歩兵第四十旅団長(朝鮮へ)。
昭和十二年(五十二歳)八月二十六日支那駐屯混成旅団長。十一月一日陸軍中将。
昭和十三年(五十三歳)七月十五日北支那方面軍参謀長。
昭和十四年(五十四歳)九月二十三日第四師団長(北支・満蒙)。
昭和十五年(五十五歳)七月二十二日航空総監兼航空本部長(東京)。十二月十日ドイツ派遣航空視察団長としてドイツ・ベルリン訪問。
昭和十六年(五十六歳)六月九日軍事参議官。七月十七日関東防衛軍司令官(満州)。十一月六日第二十五軍司令官。十二月八日マレー作戦の指揮官としてコタバル上陸。
昭和十七年(五十七歳)二月十五日シンガポールを陥落させる。七月一日第一方面軍司令官(満州)。
昭和十八年(五十八歳)二月十日陸軍大将。
昭和十九年(五十九歳)九月二十六日第十四方面軍司令官(フィリピン)。
昭和二十年(六十歳)一月第十四方面軍はバギオ山中に移動。九月三日バギオで米軍に降伏し調印。十二月八日マニラ軍事法廷で死刑判決。
昭和二十一年(六十歳)二月二十三日マニラ郊外ロス・パニョスで刑死(絞首刑)。享年六十歳。