OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

市民と国民

2008-10-04 13:37:17 | Weblog
あまり多くはないですが、たまに取上げさせてもらう時事ネタなんかの時、迷う事があるんです。ここは「市民」と書けばいいんだろうか、それとも「国民」と書く方が相応しいんだろうかって。実は、先日、政治家の資質の話をしたときにも、やっぱり迷ってたんですよね(^^;。

社会学を修めた人や、社会的な事柄に興味のある方なら、「市民」と「国民」の区別なんて明白で、使い方に迷う事なんてないと思いますが、わたしのように漠然とした認識しかない者は、「あれ?」って立ち止まってしまうと、知識がないだけに出口がなくなってしまいます。

たぶん、「国民」は、その国の国籍がある人のことじゃないかと思うんです。だから、比較的、使い方は単純じゃないかと。でも、問題は「市民」なんですよね。

子どもたちなら、「市民」っていうと、自分が住んでいる○○市の住民って思うと思うんですよ。国・県・市・区・町、そういう区分が、身近にあるわけですから、その「市」の「民」だと。

でも、実は「市民」って、もっと奥深いですよね。

わたしの場合は、オーソン・ウェルズの処女監督作『市民ケーン』とか、古代ギリシャや古代ローマの「市民」が、まず思い浮かぶんですが・・・もう一歩「市民って何だろう」って考えると、そこには、何か「縛られないもの」があるよな気がしたりはするんですけど、それはちょっとユートピアンな発想ですかね(^^;。

なんていうんだろう・・・生れ落ちた時と場所の環境によって、自動的に組み込まれることになる共同体から与えられる一律の資格ではなく、自分の意思決定が必要な・・・だから、自律性とか、主体性とか、そういうものがある・・・その分、権利だけじゃなく、重い義務も負う・・・そういうものなのかなとか。おっと、それだと、全然縛られてないことないなぁ~。むしろ「国民」より重いなあ(^^;。

けど、たとえば「市民権を得る」みたいな使い方に接すると・・・もっと叙情的な「そこに居場所がある」ってことなのかなとかも思ったりするわけですけどね(^^)。

ただねぇ~・・・やっぱり思うんですよ。わたしたち、国民であるだけじゃ駄目だって。やっぱり、市民でなくちゃ駄目なんじゃないかって。つまり、為政者に「幸せにしてよ!」って言うだけじゃなくって、自分たちで幸せを掴む努力をする人間にならなきゃ駄目じゃないかって思うんです。そう思うんですよねぇ~。