OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

仏像のお顔

2008-08-03 12:53:20 | Weblog
夏場、家では下駄を履くのだと言ったことがあると思いますが、ここ数日、実験的に、鼻緒の位置を人差し指と中指の間にしてみています。古くからの習慣や言い伝えなどは、科学的根拠が明らかでなくても、経験という素晴らしい後ろ盾でもって、正しい判断に辿り着いている場合が多いわけで・・・当然、鼻緒も、親指と人差し指の間で挟むべきとは思いつつ・・・せっかくだから自分の体で実験してみようかと思ってしまったのであります(^^;。せっかく・・・というのは、ほら、ビーチサンダルなどと違って、日本の下駄や草履の鼻緒って、ほとんど真ん中に取り付けられているわけで・・・だから、人差し指と中指で挟んでも、さして無理は生じないですから・・・それを試してみない手はないと(^^)。で、実際に人差し指と中指の間に鼻緒をもってきたら、最初は多少の違和感がありますが、慣れると案外、悪くない気もするんですよね。だから、気分次第で、いろんな指の間を使ってみたら、良い足指マッサージになるんじゃないでしょうかね。そんなことないですかね(^^;。

ところで、また藍那ネタですが・・・先日、彼女と雑談していたら、会話の中で、彼女が「仏像のお顔」って言ったんですよね。「顔」じゃなくて「お顔」って。それがね・・・なんだか、わたしは、とっても嬉しかったのですよ。

もともと我が家は、言葉に「お」を付けることが、比較的多い方だとは思います。決して由緒正しい良家ではないのですが・・・たぶん「関西の習慣+赤ちゃん言葉の名残」で、そうなっているんだと思います。関西らしく「お豆さん」とか「お饅頭」とか「お紅茶」など、食べ物には当たり前のように「お」を付けますし、「お靴」「お洋服」「お薬」「お泊り」などは、彼女たちが子どもの頃に投げかけていた言葉が習慣化したものだと思います。けど、この「お顔」の「お」は、そういう「お」ではないと、わたしは勝手に感じたんですよね。

つまり・・・藍那の使った「お顔」の「お」は、相手に対する彼女個人の敬意が現れた「お」だと感じて、それが嬉しかったんですよね。

ちなみに、彼女もわたしも、彼女の父も、特定の宗教に帰依しているということはありません。だから、仏教という宗教に、特別な敬意をはらった訳ではないと思うのです。けれど、なんていうか・・・人々の信仰心というようなものを大切に感じたから、自然と「お顔」と言ったんだと思うんです。

宗教も信仰も、時に、とても厄介なものになります。それが戦争を引き起こすこともあるし・・・世界的な根深い争いごとの原因は、ほとんど宗教絡みと言っていいんじゃないとか思うほどです。けれど、だからこそ、宗教や信仰というのが、人の心の一番大切な部分に関わることだということが、推し量れると思うのです。

だから・・・たとえ共感できないものであっても、他の人の信仰や、それが形になったものに対峙する時には、それなりの敬意をもって接したいと、わたしは思うのです。そして、藍那も無意識にそれをしているんだなと感じられて、とても嬉しかったのです。

わたしが、そのことを藍那に伝えると、彼女は「バチカンに行ったときに感じた」と言っていました。そっかぁ~、そうなのかぁ~・・・観光客の一人として、観光地であるバチカンにいっただけだったけど・・・そういうことを、ちゃんと感じてくれていたのかと思うと、なんだか無性に嬉しくて、まじでウルウルしてしまいました(^^;。

なんていっても、まだまだ未熟モノで・・・特に、実家にいる時などは、我が侭が止まらない!って感じのお姫様状態で・・・きっと、外でも、色んな人に迷惑ばかりかけている馬鹿娘だとは思うのですが・・・日々の様々な出会いの中で、その都度、少しずつ大切なものを学んでいってくれればいいなと思います。道は遠いですけどね・・・だって、彼女の倍は生きているワタシ自身が、まだまだ、その道の途中ですしね(^^;。

写真は、見づらいですが、切り花の茎から育った根っこです。すごい生命力ですねぇ~(^^)。