オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

わたしは決してあなたを離れず

2018-03-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月11日(日)主日礼拝(ヘブル13:1~17)岡田邦夫


「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」ヘブル13:5―6

 先週、日本ホーリネス教団の牧師たちは召集状をいただき、年会に出席し、最後の聖別派遣式で各地の教会に任命を受け、派遣されました。牧師というのは神の召命を受け、使命をいただいて派遣されていくものです。

◇この世を離れて…二度目をめざして
 教会の原語は召し集められたものという意味で、私たちはイエス・キリストに呼ばれ、召されて、集まってきたのです。毎週の礼拝もそうなのです。初めに招きの言葉、招詞が告げられます。神の招きを受け、集められたのです。そして、礼拝が進行し、最後に祝祷、それは派遣の祈りでもあります。
 また、クリスチャンが使命を終えて、死んで天国に行くのが「召天」です。この頃、終活ということが言われており、それは確かに必要ですが、死んだ後のこと、死後への魂の備えはさらに重要です。このヘブル人への手紙はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)。しかし、私たちの救いのために、御子は苦難を全うされ、天の聖所の大祭司となられました。そして、ただ一度、入られ、ご自身の血をもって永遠の贖いを成し遂げられました(9:17)。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(9:27-28)。

◇イエスから目を離さないで…信仰の成熟をめざして
 すでに初臨のキリストによって救われているのですが、再臨のキリストによって、救いは完成するの「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟(完成)を目ざして進もうではありませんか」と勧めます(6:1カッコは口語訳)。これが本当の終末の生き方、終活です。
 成熟(完成)を目ざすにはまず、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ことです(2:2)。
 そして、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てるのです。忍耐をもって走るのです(12:1)。この「忍耐」をある英語の聖書はパースィブィランスと訳しています。堅忍の努力というような錬り強さを意味します。それがどんなに
厳しい試練でも得るものがあるので粘り強く耐えるのです。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(12:11)。忍耐の先にあるもの、信仰者のゴールにあるものは実に輝けるものです。それに近づいているのです(12:22-24、28)。
  シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使いたちの大祝会、天に登録されている長子たちの教会、
万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
新しい契約の仲介者イエス、(キリストの注ぎだされた血※)
揺り動かされない御国     ※アベルの血よりもすぐれたことを語る
 このような永遠の都をめざし、さらに、前向きに神に喜ばれるいけにえをささげる生活を勧めます(13:16)。それは…
 兄弟愛をもて。苦しめられている人を思いやれ。不品行を避け、よい夫婦たれ。金銭を愛すな、持っているもので満足せよ。善を行い、分かち合え。異なる教えに迷わされるな。みことばを話した指導者を思い出し、また従え。キリストのはずかしめを身に負え。そして、賛美のいけにえを絶えずささげよ。

◇あなたを離れないで…御国の完成をめざして
 このように永遠の都をめざし、信仰に成熟をめざす聖徒たちを主は私たちのこのような霊的巡礼の旅の同伴者です。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(13:5-6)。
 中学生キャンプでスタッフの奉仕をしている時に、中野雄一郎牧師がこのみ言葉から説教されたのを忘れることが出来ません。先生はご自分の証しをされました。陸上の選手でしたが、昔のこと、16歳の時に結核を患ってしまい、入院しました。もう運動はできないと思うと自暴自棄になっていました。ある朝、ラジオをつけると、たまたま、世の光かルーテルアワーか私、忘れましたが、とにかく福音放送が流れて来ました。この聖書の言葉が少年の乾いた心に入ってきて、気が付いたら、ラジオにしがみついて聞いていたとのことです。それから、教会に行き、救われました。「自分ほど救われて喜んだ人を見たことはない。」と語っていました。そして、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』は大変強い言葉で、決して、決して、決して捨てないのだと力を込めて、キャンパーに語っていました。「決して、決して、決して…」の響きが私の心に今も残っています。

 イエス・キリストは人に捨てられ、身代わりに罪を背負ったので、神に捨てられました。「わが神、わが神。どうしてお見捨てになったのですか。」と叫ばれ、ついに息を引き取られ、墓に葬られ、ハデスにまで下りました。三日目によみがえらされました。使徒がこう証言しています。「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:31-32)。受難による贖いの使命を全うされた御子を父なる神は見捨てられなかったのです。ご自身が見捨て置かれなかったからこそ、決して、決して、決して、私たちをお見捨てにならないのです。
そして、その愛は永遠に変わらないのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8共同訳)。


「あしあと」Footprints 
マーガレット・F・パワーズ

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」